千住宿の大酒戦 矢田挿雲

871 ~ 876

 文化十二年十月二十一日、千住宿の中屋六右衛門方で、大規模の酒戦会がひらかれた。この酒戦は、六右衛門の喜寿の賀に因みて、催うされたものであるが、一方に慶安以来、酒戦打絶えて、地黄坊や大蛇丸の遺芳、嗅ぐ由もなきを慨した結果だとは、呆れたわけのもの、なにさま世は文化泰平の時代とて、この催しは、たちまち遠近の評判を呼び、選手と見物人とで、割れんばかりの盛況を呈した。

 その日の酒戦の模様を、当年六十七才になる蜀山人が、克明(こくめい)な写生文で書き認め、読む者涎を垂れずということなきのみか、昔延喜の帝が、亭子院に御酒たまわりし時、選手八人ことごとく酔い痴れて起居騒々しく、果ては門前に汚きものを吐き散らしなどせし中に、藤原伊衡(これひら)たゞ一人さらに乱れぬを、帝には愛(め)で玉いて、駿馬一頭を賞せられしとあるも、千住の酒戦は、一人の酒乱を出ださず、彼は朝廷の美事、これは草野の奇談なり、今や墨田川のながれ尽きせず、筑波山の茂きみかげを仰ぐ武蔵野の、広き御恵みは、延喜のひじりの御代にも立まさり、……などと、筆にまかせて油をかけたので、上戸にあらざれば人にあらず、下戸の建てたる倉はない、という調子になってきた。後水鳥記が、すなわちこれである。

 まず会場の入口には、南山老人が達筆を振った、一枚の聯が掲げてある。聯に曰く、

 『不レ許三悪客入二庵門一』

 とある。そして悪客の下に、下戸理窟の四字を割註してある。悪客は恐れ入った。上戸酔乱の気が、飲まぬうちから磅〓(ほうはく)しているわけだ。

門を入って突当りの所に、受附五人、袴をつけて鹿爪らしく、入場者の酒量を尋ね、それに相当する切手を交付して、戦場に案内する。戦場には、あらかじめ白木の台に、各種の大盃をのせて、酒客の選むにまかせてある。盃はそれぞれ蒔絵の模様に因みて、江島盃(五合入)、鎌倉盃(七合入)、宮島盃(一升入)、万寿無彊盃(一升五合入)、緑毛(みの)亀盃(二升五合入)、丹頂鶴盃(三升入)の名がついている。

 下物(さかな)は、一つの台にカラスミ、花塩、さざれ梅を盛り。一つの台に蟹と鵜の焼鳥を盛り、別に鯛の吸物が添い、いやが上にも飲めるように仕組んである。酒の座に接して、来賓席が設けられ、青竹をもって界をつくり、緋毛氈を敷き、そこには谷文晁、亀田鵬斎以下の名士が、片唾を飲んで控えている。

 やがて酒戦が始まった。酒戦というけれども地黄坊の時代とは、一と時代進んでいるだけあって、レコードも何もつくらず、ひたすら仮装敵を盛りつぶすような、悪どいやりかたではなく、銘々が登場して自分の腹一杯飲んで引きさがる。それを当日の世話人たる政木長左衛門(千住)、菊地清七(浅草)、村本幸三郎(花川戸)の三名が監視して、酒量のレコードをとり、最後に番附をつくるという、事務的の競技法である。

 第一着に、伊勢屋某こと玄慶老人と名乗る、六十二才の翁が座につき、芸妓お石、お文、天満屋の美代女、菊屋のおすみなどの酌で、三升五合飲み干して、退席した。あとで聞けば、老人は帰り途で、通新町の秋葉の堂に一睡して無事帰宅した。

 次に現われた大阪屋長兵衛こと大長は、四升あまり平らげて退席、これは近所の家に酔い倒れたが、次の朝辰の刻に目を覚し、迎酒を一升五合かたむけ、前日の世話人に礼をのべて、帰宅した。

 次に現われた掃部宿(かもんじゅく)百姓市兵衛こと百市は、焼とうがらし三つを下物(さかな)に、万寿無彊盃を三盃、都合四升五合飲み干して退席、翌日叔母が心配して、見舞に行くと、折柄到来の牡丹餅を、囲炉裡で焼いて、食べようとするところであった。

百市の近所に住む米屋松勘は、江の島盃、鎌倉盃、宮島盃、万寿盃と順次に押(あお)り、合計三升七合の酒を飲み干して掌で口のはたを拭きながら、神妙に帰って行った。

 次に現われた小山宿の佐兵衛は、緑毛亀(みのがめ)の盃で三杯、都合七升五合を平げ、新吉原仲の町、大野屋の大熊老人は、はじめ江の島盃で数献ののち、万寿盃で満を引き、帰り途に小塚原の遊女を買って若返ったとは、稀代の不良老年。

 次に出た浅草御蔵前の正太は、来がけに浅草の知人の家で、一升五合ほど飲んで、雷門までくると、うしろから女房が追すがり、しきりに諫めて、往来で夫婦喧嘩をはじめたが、俠客某が扱って、夫婦を家に帰らせた。正太大いにこれを遺憾とし、翌日はるばる千住に押しかけ、わけを話し、丹頂鶴の盃で、三升の酒を飲干してひきとった。

 芝大門の長治、酒ばかりでは平凡だと、酒一升に、醤油一升、水一升、酢一升を混ぜ、合計四升の液体を、三味線にあわせて飲み干したのは、巫山戯(ふざけ)た男。そこで気のきいた江戸ッ子、

 『おうや、はらわたの三杯漬けをこせえようというんだな』

 と洒落のめした。

 酌婦のおいし、お文は、江の島五合入と、鎌倉七合入を一杯づつ呑みほし、そのほか小盃の数知れず、天満屋お美代の一升五合、菊屋おすみの二升五合、おつたの七合と、メスのうわばみもオスに負けぬ勢い、その中にもお美代は少しも酔った気色なく、しまいまで酔倒れの介抱をした。

    飛入り正覚坊

 文晁、鵬斎の二先生は、江の島、鎌倉の二大杯をかたむけた上、小盃はこれまた数知れず、玉山将に崩れんとするを見て、会主から帰りの駕籠をとろうとしたら、界隈の駕籠かきどもゝ、当日の賀に樽の鏡をぬき、ひさごで酌み出して、馳走されたので、みな酔い伏して、腰がたゝず、両先生は、蹌々と徒歩で会場を出た。

 また当日の板場を受持った太助は、朝から飲みはじめてこれも盃の数知れず、前後に丹頂の鶴の盃で、三升一と飲み干して、打とめにした。

 かほどの大酒戦会も、酒会互に礼をみださず、薄暮の頃無事散会したが、そのあとは、流石に杯盤狼藉であった。後片づけをしようとしていると、そこへ、

 『頼もう、拙者は、奥州会津の河田と申す者でござるが、今日の酒会の噂を聞き、宿のあるじと同道にて参りました。一献おさし下されば有難き仕合せ』

 と申入れたものがある。会主中六、大いに喜び、

 『さあさあどうぞ、こちらへ通られて、ごゆるりとお重ね下され』

 と酒戦の座に請じた。河田は、まず江の島の盃で小手調べをしてから、鎌倉、宮島、万寿、緑毛亀の五盃で都合六升二合の酒を浴び、

 『あすは巳みがき用事あって、出立せねばなりませぬ故これで納めと致します。あすの用さえなくば、丹頂鶴の盃にて、今三升頂戴致すべきに、何よりも残り惜しう存じます』

 と篤く一礼して去った。これがその日の、張し横綱であることはもちろんで、一同酔も何もさめ果てゝ、河田の後ろ姿を見送った。文台に向って、酒量のレコードを作れる二世平秩東作も、筆を投じて感に入った、なにさま五升の六升のという酒を、見る間に飲み干して、腹も破れぬ化け物のなかに交っては、一升前後の酒呑みなど、物の数ではなかった。


 以上列記せる外、当日の酒量勝負番附にのった面々は、品川宿さがみ屋内旅人、上総屋専太郎の三升八合、本郷御弓町、辻九左衛門の三升五合、両国横山町、井上喜十郎の三升二合、千住宿、佐藤金露堂の三升一合、浅草馬道、指物屋文右衛門の三升、吉原町女芸妓、花立のせいの二升七合、深川木場俳人、右登富喜の二升六合、瀬戸物町むさしや金蔵および神田須田町、松本東庵の二升五合、麹町平川町、髪結由蔵の一升七合、芝露月町、黒川きくの一升五合、日本橋呉服町、和泉田豊八の一升四合、大伝馬町越崎巳之助の一升二合、向島白髭前、米吉一升一合等であった。このうち黒川きくは、十五才の少女、米吉は十二才の童であった。(下略)

(『江戸から東京へ』より)