明治の初期、埼玉県熊ヶ谷から千住にいたる延長六○キロの、いわゆる熊ヶ谷堤の中、西新井橋付近から川口にいたる間の堤の損傷がはなはだしかったので、時の戸長清水謙吾氏の申し出により堤が補修されたが、これを機会に郡長尾崎班象氏が主となって堤上に桜を植えることを決定した。苗木の移植購入費用は同志の者が出し合い、当時の桜樹専門家高木孫右衛門に頼んで七十八種類三千本の桜苗を植えさせた。明治十九年三月のことである。じ来都内の桜の名所として有名となり、荒川での舟遊びとともに春の行楽地となった。しかし、荒川改修工事が始まってから珍種十数本を他に移植し、数百本を伐採した。
その後、西新井村地区内に二百本、江北村地内に四百本を補植し、残数五百本と合わせて、千有余本の培養につとめたため、世界的観桜地としてその名が響いた。明治四十五年には、東京市からアメリカ合衆国に桜苗を寄贈することとなり、同堤の桜十一種類が選ばれ輸送された。十一種の桜は三好理学博士の説に従い、白雪・有明・御車還・上香・滝香・染井吉野・福禄寿・御衣・黄・一葉・関山・普賢像とよばれた。
現在、この桜はワシントン市ポトマック河畔にあってみごとな並木にそだち、同市の名所の一つとなっている。
また、大正七年から十年にいたる間に千四百本の苗木を青島(チンタオ)の民政署にも送付した。
こうして、荒川五色桜として内外にその名をとどろかした蔭の力は、三好理学博士と江北村の船津静作翁の不断の研究の賜物であったという。
このようなせっかくの名桜も第二次世界大戦中、または戦争に敗れてから、燃料として盗伐されてしまった。昭和二十七年、ときの大山雅二足立区長は再びむかしのような桜の名所をつくろうと、小右衛門町から区境の水神橋までの約三キロにわたり、四号国道の両側に染井吉野七千二十本を移植した。さらにアメリカ合衆国政府に対し、ワシントン在外事務所を通じて、かって尾崎東京市長が贈った江北の桜の接穂を分譲してくれるように懇請した。このことによって、逆に桜を寄贈されることになり、昭和二十七年三月四日、ワシントン市ポトマック河畔の桜の苗木がノースウエスト八〇三号機で東京都に空輸されてきた。
区では、三年計画で葛飾区にある都立水元緑地事務所(水元苗圃)でこの由緒ある桜苗とともに、あわせて全国の桜の名所に連絡し、約百種類の桜苗を集めて五千本の接木を行ない、そのうちから七十二種三百六十七本の苗木を選んで、荒川左岸、北堀之内町、小台大門町、下沼田町、本木町四丁目、同五丁目と五か町にわたって植え付け、荒川堤五色桜を復活させた。
しかし、桜並木に沿って道路があり、自動車の往来が激しく、そのため車の排気ガスと振動で、桜の発育が悪く、なかには枯れてしまったものもあり、往年の五色桜のようにはなかなか復活できない状態である。