千住源長寺の裏手から元宿、梅田、島根、栗原、六月、竹塚へ通じる細道は、平安朝時代の唯一の奥羽道であった。後冷泉天皇(一〇四五-一〇六七)の御代に奥羽の首長安部頼時が乱を起こしたので、鎮守府将軍頼義と、副将軍義家の父子がその討伐に向い、この道に到着した。このとき安部氏に呼応した付近の豪族の急襲にあい、進退きわまり、神仏の加護を求めるよりほかなく、兵を集めて西の方石清水(いわしみず)八幡宮に勝利を祈願した。こののち、賊軍は陽に向って戦ったため、すっかり敗北し、義家は大戦勝を得た。頼義父子は奥州平定の後、ふたたびこの地に立寄り、八幡の小社を建て、さらに一字をそのそばに建立して戦死者の霊を弔った。
そのときの戦いが六月の炎天のころであったので、この寺を炎天寺と名づけ、この村を六月村とよぶようになった。「六月村の炎天寺、住職は土用坊、おかみさんはお夏さん」というおもしろい文句はこれによっておきたのである。
なお、『新編武蔵風土記稿』には義家がここを屯所とした時、すでに一つの堂があったと記されている。