本木の起こり

894 ~ 895

 応仁年間(一四六七-一四六八)、足柄に小宮光徳という関守がいた。仏教を信じ、ある日心経を口づさみながら、山林の中を歩いていると、草堂が建っていた。信仰に厚い光徳は、草堂に向い拝していると、堂の扉が開き、一人の老人が出て来てこういった。

 「お前の来るのを長い間待っていた。お前は武人としての生活をしているが、仏への信仰が厚く感心である。わたしは桂花老人というものだが、この霊仏を守護して幾年がたってしまった。いま、このあたりを樵夫(しょうふ)たちは関が原というが、そのむかし、良弁和尚がある大木の下に泊ったとき、夢の中で光を放つ霊木を見た。翌朝、この夢の中のことを思い起こし、ためしに大木に斧を下してみると、血が流れ出た。良弁和尚はその木が不動明王の化身であることを知り、すぐにその木で三体の不動明王の像を彫ったが、そのうち根もとで作ったのがこれで、その他の尊像は、相模国大山口と、武蔵国大相模の不動明王である。お前にこの本木で彫刻した同木同作の尊容を与える。早く戦争からのがれて郷里に帰り、明王に仕えよ。そうすれば四海泰平の時、必ず四方によいことがあるだろう。しばらくここで休んでいけ、」

 不思議な老人から尊像をもらったかれは、老人の言葉に感激して、明王を抱き、相模川を越え、武蔵国にはいり、荏原・豊島・荒川を過ぎて故郷に着いた。妻は、夫が日輪を懐中(ふところ)して八大童子に護られている夢を見て、出迎えに来た。光徳は不思議なこの一部始終を妻に話し、老人を戒師として八幡社のそばに草庵をつくり、持ってきた不動明王を安置し、自分は髪をそって阿比丘と名を改め、妻は妙林とよぶようになった。そして文明十七年(一四八五)十月に他界したという。これが、関原山と土地の開発をうまく取入れた本木の地名伝説である。