慶応四年(一八六八)一月、将軍慶喜の大政奉還に不満な幕軍は、薩長軍と鳥羽伏見で戦い大敗した。幕軍の急先鋒新撰組も隊長近藤勇以下参加したが、敗戦となるとただちに江戸へ帰り、さらに奥州へ落ち延びて再挙を図ろうとした。慶応四年はひどく雨が多かった。三月十日も朝からどんより曇って春とは名ばかり、はだ寒い天気だった。
武蔵国足立郡五兵衛新田の名主金子左内方に、この新撰組百五十余人がおしかけてきたのは、その夜中のことであった。間口九間(約一六・四メートル)という長屋門のとびらを破るようにたたく音に、下男が起き出てそっとすき間からのぞいてびっくり仰天、主人左内が出ていった時には、乗馬姿の隊長近藤勇、副隊長土方歳三を先頭に、白鉢巻姿の隊士たちで、門前の広場が埋まっていた。主人の制止も聞かばこそ、無理に門を開けさせ、邸内に乗り込んできた。宅地三千坪(約九九〇〇平方メートル)、堀をめぐらし、松の大木が周囲に茂っているという城のようなこの邸宅が、しばらくは新撰組の本陣となった。
家人は一室に追い払われ、七十坪(二三〇平方メートル)にあまる母屋は隊士たちに占領された。隊長ら幹部は、奥十畳の間に、役付はそれぞれ座敷を占領し、一般隊員は土間か土蔵、納屋のひさし下にまであふれた。また奥の間には軍用金の千両箱が積み重ねられ、米倉は隊士によって勝手に開けられ、たき出しがはじまり、綾瀬川べりのこの農村は、一瞬にして緊迫した戦場の空気につつまれてしまった。名主の家の門前には「誠」の一字を染めぬいた新撰組隊旗がひるがえり、広場には鉄砲、やりを持った隊員の調練が始まった。江戸への通路である水戸橋、伊藤谷橋には、見張りの隊士が詰めており、幕府倒れて五か月、とうとう足立郡もその混乱の渦に巻込まれてしまった。このときの新撰組は鳥羽伏見の戦いに敗れたため、新たに隊員を募集して再編成したもので、甲陽鎮撫隊といった。三月初め甲州に向って出発したが、これもまた勝沼で官軍に大敗し、江戸に戻ったいわば第二次新撰組だったのである。
村民が心配したとおり、隊員のがらは悪かった。押し借り、強盗、無銭飲食、試し切りなどの事件は、訴えるところとてなく、ただ息をのんで見守っているほかなかった。しかし、さすがに隊長の近藤勇の悪口は残っていない。あまり表にも出ないし、たまに村の子どもが綾瀬川でとれたコイなどを持っていくと、いまでも残っている四メートルばかりのくつぬぎ石に立って、ほうびの金を自分からくれたりした。何といっても最大の被害者は金子方で、米倉の米はみんなたべられてしまうし、おまけにあるじ左内は浦和の官軍方に引張られて、一か月も取調べを受け、新撰組引揚げの際などは、焼き払われるのではないかと、戦々兢々(きょうきょう)としていたそうである。
この新撰組が足立に潜伏しているとの報が官軍に伝わり、当時、板橋宿に滞陣中の江州彦根藩、信州須坂藩から追手勢三千名が差し向けられて、四月一日夕刻千住宿に到着した。翌二日未明、千住宿を出発し、水戸街道を東に進んで小菅御殿に集結し、伊藤谷橋のたもとに大砲をすえ、物見(斥候)を五兵衛新田に出したが、時すでに遅く、新撰組は官軍の攻めてくる気配を知って、一日の晩千葉流山に退散した後であった。
なお、新撰組は四月四日朝、流山で官軍に急襲され、大部分は降伏した。隊長近藤勇はのがれたが、ついに、板橋宿で彦根藩に大久保大和の偽名をつかって投降した。その後、見破られ四月二十五日、巣鴨庚申塚処刑場で打首となった。