名所となった堤防

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洪水から町を守っていたのが、千住の町の水防線、堤防である。歴史上の堤防としては墨堤の北縁に位置する掃部堤、現埼玉県から連続していた熊谷堤(荒川堤)がある。千住地区南部では、この二つの堤防が二重になった部分があり、南(下流側)からの水に備えていた。この掃部堤と熊谷堤は、江戸東京の名所ともなった。千住河原は江戸時代の行楽地となったし、通称さくら土手は、荒川の桜として東京の人々を誘(いざな)った。そして近代になって建設された荒川の堤防と河川敷も広大な空間を生み出しただけではなかった。永井荷風は「放水路の発見」とも称される散策地として放水路の土手を文字に書き留め(随筆「放水路」)、今日ではグランドや広場が設けられた公園となって、花火大会や凧揚げ、さらには区民祭りの会場となるなど人々の生活に深くかかわっている。そして千住地区の人々がドテ(「土手」「土堤」)と呼ぶ堤防とその河川は他地域と同地区を分けているだけでなく、このように暮らしと密着した空間でもあったのである。