架橋当時の同時代資料は伝来していないが、大橋の鎮守と言われる熊野神社(南千住)の棟札の写しが掃部宿(かもんじゅく)名主だった高尾家の文書に伝来している。この写しは、棟札の文面を写したものであるが、その一つに次のように記載されている。
奉行伊奈備前守建立之
奉造立熊野大権現社御橋鎮護所
文禄三甲午歳九月上旬
別当円蔵院源昌
この部分は架橋時に熊野権現が大橋の鎮護所として造立されたことを示しており、奉行が「伊奈備前守」であったことも記されている。また、隅田川で最初の橋梁であったため名称は単に「御橋」と記されている。のちには「大橋」と記され、さらに他の橋梁が建設されると、千住の名を冠して千住大橋と呼ばれるようになった。なお、橋に「御」の字が付いているように、千住大橋は徳川家が建設した橋梁で、一六〇三(慶長八)年に幕府が開かれてからは、幕府が管理、修繕を行っていた。