回数の記録-八回分-

22 ~ 22

現段階では江戸時代の記録が揃っていないため、推定するしかない。ちなみに古記録上で数えられる回数は八回分である(記録一覧参照)。しかし、この回数はあくまで記録上に現れる回数に過ぎない。

千住大橋の記録一覧 『東京市史稿』橋梁篇、「新編武蔵風土記」、「旧考録」より作成
No. 和暦 西暦 事項 架け替え回数に関する記述 (典拠) 橋の建設や部材に関する記述(典拠) 架橋位置に関する記述(典拠) 現在地の推定材料
1 文禄3年 1593年 9月。千住大橋架橋。奉行は代官伊奈忠次。(高尾家文書) 架橋「初度」とあり。(参考録余) 「其頃ハコヽヨリ二町程水上ニアリ」(新編武蔵風土記) 二町程=1町は109.09m。従って2町は218.18mとなる。ただし「程」という記載があるため、おおよその位置である。
2 文禄3年 1593年 千住大橋上での綱引き神事がはじまる。(武江年表)
3 元和3年 1617年 4月 秀忠、第1回の日光社参で千住大橋を通行。この時大風雨で橋で事故が発生し死者が出る。(寒松日暦、徳川実記ほか)
4 正保4年 1647年 正月 幕府、千住大橋を架け替え。小姓組、三上季正・川口正信を奉行とする。(参考録余) 架橋「二度」とあり。(参考録余) 「改テ今(化政期頃か)ノ地ノ稍西方ニ架シ」(武蔵通志) 「稍西方」の意は、やや上流の意味。
5 寛文6年 1666年 3月 幕府、千住大橋を架け替え。代官伊奈忠常を奉行とする。(参考録余) 架橋「三度」とあり。(参考録余) 建設に関する人件費、材料費などを入札とする。(町触)
「其橋杭ハ檜ニテ十八九年ニ腐申候」(参考録余)
6 天和3年 1683年 幕府、千住大橋の架け替えに着手。奉行は代官伊奈忠篤。(参考録余) 架橋「四度」とあり。(参考録余) 建設を入札で行うこととなり、代官伊奈忠篤が入札を担当(町触)
「橋杭槙ニ相成、当卯年(享保8年)まで四十年ニ相成候‥」(参考録余)
7 天和4年 1684年 千住大橋架け替え(新編武蔵風土記) 「今ノ所ニ掛ラレシ」(新編武蔵風土記) 現千住大橋公園が橋詰と考えられる。
8 貞享元年 1684年 奉行は三橋飛騨守という。(旧考録)一部の改良か。
9 元禄6年 1693年 幕府、新大橋を架橋し、千住大橋(「大橋」)に対して「新大橋」と命名。(御府内備考、葛西志)
-ただし異説(両国橋に対する新大橋とする)あり。
10 享保8年 1723年 幕府、千住大橋の来歴について調査。 「橋杭ハ八十ケ年ニ相成候」(参考録余)
11 寛保3年 1743年 幕府、両国橋の架け替えの参考のため千住大橋の構造を調査する。(両国橋掛直御修復書留) 橋杭は16列。北から一番、二番‥と付ける。構造の詳細が記録されている。(両国橋掛直御修復書留)
12 宝暦4年 1754年 幕府、千住大橋を架け替え。奉行は小幡景利(小普請奉行)。(宝暦四録、徳川実記)
13 明和4年 1767年 幕府、千住大橋を架け替え。奉行は正木康垣(作事奉行)。
14 明和9年 1772年 千住大橋大破。幕府、修復費用捻出のため橋銭徴収を行うこととする。(明和撰要集)
15 明治16年 1883年 千住大橋組(水防組)出初め式
16 明治18年 1885年 千住大橋の一部流失。ドイツ滞在中の森鴎外にも知らせが届き千住の家を心配する。(森鴎外の系族ほか)
17 昭和2年 1927年 内務省、千住大橋架け替え。 木造橋場所に架橋。現在地となる。