現段階では江戸時代の記録が揃っていないため、推定するしかない。ちなみに古記録上で数えられる回数は八回分である(記録一覧参照)。しかし、この回数はあくまで記録上に現れる回数に過ぎない。
| No. | 和暦 | 西暦 | 事項 | 架け替え回数に関する記述 (典拠) | 橋の建設や部材に関する記述(典拠) | 架橋位置に関する記述(典拠) | 現在地の推定材料 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 文禄3年 | 1593年 | 9月。千住大橋架橋。奉行は代官伊奈忠次。(高尾家文書) | 架橋「初度」とあり。(参考録余) | 「其頃ハコヽヨリ二町程水上ニアリ」(新編武蔵風土記) | 二町程=1町は109.09m。従って2町は218.18mとなる。ただし「程」という記載があるため、おおよその位置である。 | |
| 2 | 文禄3年 | 1593年 | 千住大橋上での綱引き神事がはじまる。(武江年表) | ||||
| 3 | 元和3年 | 1617年 | 4月 秀忠、第1回の日光社参で千住大橋を通行。この時大風雨で橋で事故が発生し死者が出る。(寒松日暦、徳川実記ほか) | ||||
| 4 | 正保4年 | 1647年 | 正月 幕府、千住大橋を架け替え。小姓組、三上季正・川口正信を奉行とする。(参考録余) | 架橋「二度」とあり。(参考録余) | 「改テ今(化政期頃か)ノ地ノ稍西方ニ架シ」(武蔵通志) | 「稍西方」の意は、やや上流の意味。 | |
| 5 | 寛文6年 | 1666年 | 3月 幕府、千住大橋を架け替え。代官伊奈忠常を奉行とする。(参考録余) | 架橋「三度」とあり。(参考録余) | 建設に関する人件費、材料費などを入札とする。(町触) 「其橋杭ハ檜ニテ十八九年ニ腐申候」(参考録余) |
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| 6 | 天和3年 | 1683年 | 幕府、千住大橋の架け替えに着手。奉行は代官伊奈忠篤。(参考録余) | 架橋「四度」とあり。(参考録余) | 建設を入札で行うこととなり、代官伊奈忠篤が入札を担当(町触) 「橋杭槙ニ相成、当卯年(享保8年)まで四十年ニ相成候‥」(参考録余) |
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| 7 | 天和4年 | 1684年 | 千住大橋架け替え(新編武蔵風土記) | 「今ノ所ニ掛ラレシ」(新編武蔵風土記) | 現千住大橋公園が橋詰と考えられる。 | ||
| 8 | 貞享元年 | 1684年 | 奉行は三橋飛騨守という。(旧考録)一部の改良か。 | ||||
| 9 | 元禄6年 | 1693年 | 幕府、新大橋を架橋し、千住大橋(「大橋」)に対して「新大橋」と命名。(御府内備考、葛西志) -ただし異説(両国橋に対する新大橋とする)あり。 |
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| 10 | 享保8年 | 1723年 | 幕府、千住大橋の来歴について調査。 | 「橋杭ハ八十ケ年ニ相成候」(参考録余) | |||
| 11 | 寛保3年 | 1743年 | 幕府、両国橋の架け替えの参考のため千住大橋の構造を調査する。(両国橋掛直御修復書留) | 橋杭は16列。北から一番、二番‥と付ける。構造の詳細が記録されている。(両国橋掛直御修復書留) | |||
| 12 | 宝暦4年 | 1754年 | 幕府、千住大橋を架け替え。奉行は小幡景利(小普請奉行)。(宝暦四録、徳川実記) | ||||
| 13 | 明和4年 | 1767年 | 幕府、千住大橋を架け替え。奉行は正木康垣(作事奉行)。 | ||||
| 14 | 明和9年 | 1772年 | 千住大橋大破。幕府、修復費用捻出のため橋銭徴収を行うこととする。(明和撰要集) | ||||
| 15 | 明治16年 | 1883年 | 千住大橋組(水防組)出初め式 | ||||
| 16 | 明治18年 | 1885年 | 千住大橋の一部流失。ドイツ滞在中の森鴎外にも知らせが届き千住の家を心配する。(森鴎外の系族ほか) | ||||
| 17 | 昭和2年 | 1927年 | 内務省、千住大橋架け替え。 | 木造橋場所に架橋。現在地となる。 |