宿場としての整備が本格的に行われたのは、一六二四(寛永元)年に幕府が発した日光山造営法度に基づいて実施された日光東照宮の造営および江戸と日光間の交通網整備事業によるものであった。
一六二四年正月二一日、最初の造営法度が出され、日光道中の整備が開始された(深谷克己『近世の国家・社会と天皇』校倉書房、一九九一年)。「徳川実紀」の記述によると、老中から造営の総奉行、松平正綱と秋元泰朝に江戸、日光間の宿場、道路、橋梁の整備が命じられたのである。
※造営法度は、同年の二月六日、三月十一日にも続けて発布された。
この法度を出すに当たって幕府は前年の江戸、日光間の馬継状況の調査をしたが、馬を養育している農民が少ないことや、農民の資力が不足していることが判明したため、振給金(補助金)を交付することや、年貢の減免を行うよう命じている。
この日光山造営に関する一連の幕政によって、従来の奥州街道の南部、江戸と今市の間には平行する形で日光道中が成立することになった。
一六二四(寛永元)年正月二十一日 日光山造営法度の記事
○廿一日此日日光山御宮御造営により、総奉行命ぜられし松平右衛門大夫正綱、秋元但馬守泰朝に、老臣連署の令を下さるゝは、府(江戸)より日光山に往来の諸駅、道、橋修理。公料は代官、私領は城主、地頭、寺社領迄心いるゝ所なり。しかるに去年、日光山四十里四方および府よりの道中、駅馬、査検せしめしに、五、七石の田圃取り持ち農民はさらなり。田圃多く持ちし民も馬を養い置くもの少なく、かつ穀種をかり受けてようやく下種じ、本面の高を手づからつくる者少なく、ひとへに農民等窮乏の体に聞こゆ。よて、こたび構造により振給金給われば、公私寺社領とも其高に応じ、人別をもて沙汰すべし。
甲子より丙寅迄三年の中、日光道中諸駅并本山四十里の中、租税六分の毛三分は、其年々の毛色をもて下さるべし。私領、寺社領ともかたじけなく思うべき事。
城附の租税は定額のごとく収納し、その他は分にかゝはらず、官より各年の毛色をもて、収納の如く会計して下さるべし。圃作も租税にとりたて、麥作一毛は公私領、寺社領ともその他の農民へ田作すべきよう命じ、三年の間、租税ゆるさるべし。されど領主、地頭へは公より賜るべし。
※ 「大猷院殿御実紀巻二」元和十年正月二十一日条(『徳川実紀』第二巻所収)。