前掲の「旧考録」の記述で、興味深いのは後段で、公儀の命により「民屋」すなわち屋敷を「往辺のちまた」つまり街道沿いに移したという記述である。宿場整備のために幕府が集落を移動させたというのである。「旧考録」では、この記述と同じ内容を次のようにも触れている。
…略…寛永年中迄(くわんゑいねんぢうまで)、近辺(きんぺん)まばらの村民(そんミん)を爰(こゝ)に移(うつ)して初て千住宿と改、五ヶ町と定、農の片業に商ヲ以半を潤し業とする…略…
※「旧考録」前編所収
「六 稲荷三社之事」
ここでは、より具体的に宿場の周辺に点在していた千住の「村民」を移したと、集落移動が行われたことが語られている。この集落移動が行われた年代であるが、ここでは「寛永年中」としているが、前掲の引用部分では「寛永二乙丑年」と一六二五年という年代が述べられていることから、集落の移動の画期となったのも当該年代であったと考えられる。