いま見た事例では、千住の地域内での集落移動のようすが判るが、後世の地誌類の中には、千住地域以外から千住宿への集落移動について触れた以下の事例がある。
まず一つ目は一七三三(享保一八)年の加藤敬豊著「雨の舎」の記述で、中世に栄えた隅田宿(すだじゅく)(現墨田区墨田)が移動したとの記述である。
…略…隅田の宿は、木母寺の前、隅田川の岸に有しとぞ、其跡今は田と成て、土手の内にかすも町残り、奥州道のかわりし時、隅田の宿は千住へ移りて、今の千住宿也と、里の翁の語り侍れば、…略…
※「新燕石十種」、国立国会図書館蔵。『足立風土記資料地誌2 近世地誌史料集』(足立区教育委員会、一九九三年)で翻刻。以下『近世地誌史料集』と略す。
この記述は中世に栄えた隅田宿から千住宿へ「奥州道のかわりし時」に移動があったという説で、地元の古老(「里の翁」)が語ったこととして採録されている。
二つ目も同じく隅田宿の移動に関する記事で、一八二八(文政一一)年の「墨水遊覧志」に採録された次の記述である。
鐘ヶ淵 鷺の名所なり
奥州海道千住通りになりて、隅田村の千軒町も引うつり、同村普門院は亀井戸へうつる。その時あやまって鐘この淵へおとすといふ。また石浜法源寺の鐘楼、くづれ入るともいふ。両説にしてつまびらかならず。定めて水中の鐘に銘あるべし。
※ 『江戸叢書』一、『国立国会図書館蔵。
『近世地誌史料集』所収。
これはご覧の通り鐘ヶ淵という地名の由来の中で記されたものであるが、千住宿への移動記事があり、奥州海道が千住を通るようになって、隅田村の千軒町(前出の隅田宿)も移っていったと記している。
これらの記述は中世の交通拠点であり千軒町とも称された隅田宿が、千住の前身の内の一つであると物語っている。
※ ここで見た事例については加増啓二「ノート 奥州海道隅田宿から日光道中千住宿へ」(『隅田川流域の古代・中世世界』足立区立郷土博物館、二〇〇一年)にて検証・詳述されているので参照されたい。