宿場には、休憩、宿泊のための施設が設けられる。日光社参や大名の参勤交代など公用通行に提供されるのが本陣であり、千住宿の場合、時代によって一~二か所設けられていた。一七三四(享保一九)年の「伝馬割図(てんまわりず)」(郷土博物館蔵高田家文書)に記された事例で見ると、本陣は本宿(一丁目から五丁目)のうちに二か所あった。一か所は本宿の中心、千住三丁目の市郎兵衛(いちろべえ)方(秋葉市郎兵衛)で、世襲によって比較的長期間にわたって本陣を勤めたことで知られる。もう一軒は四丁目の喜左衛門(きざえもん)方であるが、本資料以降には登場せず、一般的には本陣は一軒だったと考えられる。
こうした本陣が何らかの不都合で利用できない場合は、臨時に寺院に対して本陣御用が課せられた。「旧考録」によると、日光門主の通行記事の中で、次のように記している。
…略…御本陣ニ差支之儀、出来致候節者、御門主様御休泊御用、当宿弐町目浄土宗勝専寺(じやうどしうしやうせんじ)、并掃部宿源長寺(かもんじゆくげんちやうじ)右両寺ニ而相勤来り候事。
※「旧考録」後編所収「二日光門主の通行」所収。
ここでは本陣に支障があれば、二丁目の勝専寺と掃部宿の源長寺が本陣御用を代行するとしている。また幕末の一八五〇(嘉永三)年には、本陣が類焼したため、掃部宿の源長寺と二丁目の慈眼寺が本陣を勤めたことが記されている(「旧考録」後編所収「二四嘉永三年脇本陣御用」)。寺院では、ここに掲げた三か寺のほか、現荒川区南千住の誓願寺も、本陣御用を勤めた(開館記念『千住宿』、足立区立郷土博物館、一九八六年。以下『千住宿』と略す)。このように千住宿の本陣は常設の本陣と、臨時に寺院を用いる本陣が利用されていた。
なお本陣の利用者は基本的に勅使(ちょくし)、院使、宮、門跡、公家、大名、旗本等が利用し、一般の利用には供されなかった。また、これらの人々は他への宿泊は禁じられていたが、例外的に中村藩主相馬氏は、道中奉行の許可を得て千住一丁目名主、下川八郎兵衛方で休息することが認められていた(一八二五・文政八年三月「五街道取締書物類寄」上、『近世交通史料集』所収。『千住宿』参照)。
次に宿泊施設としては一般の旅籠がある。一例を示すと商人の定宿(じょうやど)がある。一八五五(安政二)年、商人たちの東講(あずまこう)という組織は、蝦夷地(えぞち)の松前、江差から奈良、大坂の各地に商取引のための宿を指定し、講員の商人たちが利用するようになっていた。千住宿では千住三丁目の江戸屋平右衛門方と、五丁目の越前屋平吉方が東講の定宿となっていた(上掲載図版参照)。
旅籠屋は日光道中沿いに立地しているが、立地、軒数ともに変動が激しかったようである。一七七三(安永二)年の資料では本宿の千住二丁目、三丁目と加宿(現荒川区南千住側)の小塚原町、中村町に集まっているが(永野家文書)、一丁目に集まっていた時代もあると言われていることから(『千住宿』)、旅籠の所在地自体も変化していったと考えるのが妥当であろう。
なお旅籠の軒数自体も時代によって大きく変動していることが知られている(前頁一覧参照)。これは江戸四宿(えどししゅく)(千住宿、品川宿、板橋宿、内藤新宿、後述)一般に言われていることだが、宿泊需用が安定していなかったことが要因であった。
| 年代 | 軒数 |
|---|---|
| 1690(元禄3)年 | 108軒 |
| 1735年頃(享保末年) | 73軒 |
| 1764(明和元)年 | 22軒 |
| 1844(天保15 ・ 弘化元)年 | 55軒 |
| 1849(嘉永2)年 | 46軒 |
出典:1690年は前掲「筑波の記」それ以外は『千住宿』
次の資料は、宿泊需用について千住、板橋、品川の三宿が道中奉行に提出した文書の記述である。
一、板橋宿、千住宿も泊旅人は少なく、宿継御用、宿送り等の取り計らい多し。江戸入継の人馬、戻りの稼ぎこれ無し。…略…
※「明和元年、品川・千住・板橋三ヶ宿食売女御免御請書 日光道中千住宿」(永野家文書『足立区文化財調査報告書』古文書編(一)、足立区教育委員会、一九八四年所収。)
ここで宿泊する旅人(「泊旅人」)が少なく、継立の御用や宿送りといった業務が中心であったことに触れている。その理由であるが、江戸四宿は江戸に隣接していることから下り客は、より遠方の宿場、千住の場合、草加宿や越ヶ谷宿まで足を運んで宿泊することが要因であった(『千住宿』)。