千住宿が日光道中のいくつかの宿場の取締役をつとめた事例として、幕末期の一八六二(文久二)年の上に掲げた資料の例がある。これは人馬賃銭の割り増しについての廻状で、初宿の位置づけが明確に表れている好例である。
それによると千住宿を含めた江戸四宿(文中では「口宿四ケ宿」)で人馬賃銭の割り増し方について検討を進めており間もなく決定があるだろうという連絡と、組合内の各宿が足並みを揃えるため「初宿」(=千住宿)が内容を取り極め、組合の各宿場は、その決定に従うようと求めている。
取締役としては千住宿の市郎兵衛(秋葉市郎兵衛)と、栗橋宿の由右衛門があがっているが、内容から見て千住宿の決定が、各宿場に伝達された仕組みが見えてくる。このように江戸四宿であることと日光道中の初宿という地位は千住宿を他の一般的な宿場と異なる役割を果たさせていた。
なお、この人馬賃銭の割り増しは、「年季(ねんき)」(=期限)がある一時的なものであったらしく、翌一八六三(文久三)年には、上に掲げた請書を代官に差し出している。本資料によると千住宿は品川宿とともに幕府の命を請け、直接諸街道に命令を伝達する責任者の役割を担い、奥州道中(日光道中を含める)、水戸佐倉道、壬生通りの各街道の「宿々」に「通達に及ぶべき旨」の任務を請け負っている。
こうした千住宿の日光道中の宿々への指示が行われている事例として次の江戸大伝馬町から千住への継立の先触(さきぶれ)(事前連絡)の例がある。
一、御伝馬人足 壱疋
壱人
戸田五介様御組
松野長九郎様
右は、明六日朝五ツ時、江戸御立候間、人馬用意相待ち申さるべく候。尤も先々の儀は、そこもとにて、仰せ渡さるべく候間、左様御心得これ有るべく候。以上。
辰(一七二四・享保九年)九月五日 江戸大伝馬町
馬込勘解由 判
千住町問屋中
※「御鷹御用書留帳」(越谷市榎本家文書、『越谷市史』三)。
ここで江戸の大伝馬町は、人馬の用意を千住宿で行うよう連絡し、さらに先の継立については(「先々の儀」)、千住宿が決めるようにと言っている。
これらの事例から明らかなように、初宿であるという地位は、地理的な位置関係に留まらず、街道の支配で重要な役割を果たしていたことが判明する。
千住宿が宿場組合取締役となった事例
廻状をもって御意を得候。陳(のべ)るは、宿々困窮に及び候につき、人馬賃銭、再割り増し今般仰せ付けられ、御同様に有り難き御救いと存じ奉り候。右は宿助郷出合高え相当の割合相渡し候よう御請書仰せ渡さるも御座候義につき、不相当の義これ無きよう御取りはからいしかるべし。もっともこの程、口宿四ケ宿(江戸四宿)申し合わせ中につき、千住宿にても未だ割合相極め申さず、程なく治定仕るべき間、取りはからいぶり、なお御達し申すべく候。先ずは組内は同様に取りはからい致し、区々相成候もいかがにつき、この段御達し申し候。相なるべくは初宿申し合わせ取り極め候上、組宿打ち寄り申し合わせ候えば、不同もこれ無く行き届き申すべし。併せてそれぞれ先例もこれ有る御取り極めに相成候はば、格別宿々御存意宿下へお記しなさるべく候。この状刻付けを以って早々順達し、留り中田宿より由右衛門方へ御返しなさるべく候。以上。
当組合
戌二月廿九日 取締役
千住宿
市郎兵衛
栗橋宿
由右衛門
千住宿より
中田宿迄
右宿々
御門(問)屋中
※出典=「幸手宿人馬賃銭并加助郷被仰付書留」(京都大学国史研究室所蔵文書。『新編埼玉県史』資料編一五所収)。
※註=組合の宿は千住、草加、越谷、粕壁、杉戸、幸手、栗橋、中田の八つの宿場。
初宿による街道筋への命令伝達の事例
差上申一札之事
諸街道共、人馬賃銭これまで有り来たり割り増しの上え三割増し、川場の儀は二割り増しの処、当二月限り年季明けにつき、追って御沙汰御座候まで右割り増しの分、これまでの通り請け取るべき旨仰せ渡さる。かつ品川宿は佐屋路とも、千住宿は奥州道中、水戸佐倉道、壬生通りとも。先宿々え通達に及ぶべき旨、これまた仰せ渡され承知おそれ奉り候。よって御請証文差し上げ申処くだんの如し。
当御代官所
東海道品川宿
役人惣代
問屋見習
源太郎
日光道中千住宿
役人惣代
問屋
市郎兵衛
竹垣三右衛門様
御役所
※出典=「幸手宿人馬賃銭并加助郷被仰付書留」(京都大学国史研究室所蔵文書。『新編埼玉県史』資料編一五所収)。