先に見た資料にも登場するが、千住宿のもう一つの特徴的な性格が江戸四宿の一つであるということである。江戸は五街道の始発点であるとともに、一つの拠点と、外縁部にある四つの宿場が一体となって交通機能を果たしていた。
江戸四宿は東海道品川宿、日光道中千住宿、中山道板橋宿、甲州道中内藤新宿の四つの宿場が江戸四宿と呼ばれていた。四宿は一斉に整備されたのではなく、それぞれの街道機能と平行して整備が進められていった。内藤新宿がもっとも新しく、一六九八(元禄一一)年に成立した(ただし一七一八年・享保三年に一旦廃止され、一七七二年・明和九年に再設置された)。
江戸府内の交通拠点は、大伝馬町(おおでんまちょう)と南伝馬町(みなみでんまちょう)、そして小伝馬町(こでんまちょう)のいわゆる三伝馬町であった。このうち大伝馬町と南伝馬町の両伝馬町が道中筋伝馬御用(どうちゅうすじてんまごよう)をつとめ、小伝馬町は江戸府内の伝馬御用をつとめた(ただし近世初期など時代によっては小伝馬町も道中筋伝馬御用をつとめた事例もある)。
江戸と他地域との交通は、両伝馬町と四宿が、相互補完関係をもって構成されていた。前頁に掲げた図は四宿と両伝馬町の交通機能の概念図である。
交通機能の特徴の一つは四宿が相互に人馬を継立て輸送を直接行っていたことである。千住から品川へ、また板橋から千住へといった具合に相互に輸送を行った。次に両伝馬町との関係であるが、四宿から両伝馬町へ継立を行うことは無く、両伝馬町から四宿へと一方通行の継立が行われた。また四宿から江戸への継立は府内各地に行われたと考えられる(両伝馬町と四宿の関係については『江戸東京学事典』、三省堂、一九八七年刊の「伝馬」の項による)。
上に掲げた資料は江戸府内四ッ谷への継立と、品川宿への継立の事例である。千住宿は江戸府内と江戸四宿(資料では品川宿)への継立を行っており、他の四宿も同様に継立を行い、江戸の宿場として一体の機能を果たしていた。これに加え前述の通り四宿間で駄賃銭の取り極めを調整するなど、四宿はそれぞれの街道の初宿としての立場も併せ持っていた。
なお四宿という呼称が登場したのが何時なのかは残念ながら定かではない。それぞれの宿場にあった遊郭との関連性が指摘されているが(前掲『江戸東京学事典』ほか)、今後の研究課題となっている。
千住宿から江戸への人馬継立の例
四ッ谷
一、地福院様
御先触
人足六人
馬 三疋
此立払
人足四人 江戸行
軽尻馬三疋
是は宿助郷にて継立、御定賃銭受取申候。
千住宿から江戸四宿への人馬継立の例
品川宿
一、常行寺様
御先触
人足四人
馬 壱疋
此立払
本馬壱疋 品川行
是は助郷にて継立、御定賃銭受取申候。
※前掲「文化十二年日〆帳]より