一六一七(元和三)年四月の徳川秀忠の日光東照宮参詣を初見として、千住は将軍家(将軍、嗣子)の日光への参詣(日光社参)の経路となった。将軍家の社参は大規模な通行であり、そのたびごとに社参令が出され、通行に当たっては御定の賃銭が各宿場に示された(『徳川禁令考』前集第一、創文社、一九五九年所収、「日光社参」の各条文を参照)。一六二二(元和八)年の例では人足一人につき四文、馬一匹につき八文と定められ(前掲『徳川禁令考』前集第一、二五七号文書)、千住宿が整備された後の一六四〇(寛永一七)年の例では人足六文、馬一〇文に上げられ、その後も増額が続いた。
将軍家の社参は、江戸時代を通じて計一九回実施されたが、その多くは四代家綱の代まで集中している。また千住が経由地となったのは、そのうちの三回であった。上に掲げた一覧は、千住宿を通行した将軍家の例である。ここに掲げた事例以外は、基本的に川口を経由する日光御成道を利用している(『北区史』通史編近世、北区役所、一九九六年)。
| 回数/年月 | 経路 |
|---|---|
| 第1回 将軍秀忠 1617年(元和3)4月 |
江戸→千住(休)→岩槻→古河→宇都宮→日光 |
| 第9回 将軍家光 1632年(寛永9)4月 |
江戸→千住(休)→岩槻→古河→宇都宮→今市 |
| 第15回 嗣子家綱 1649年(慶安2)4月 |
江戸→千住(2泊)→岩槻→古河→小山→今市→日光 |
『徳川実紀』による。