こうした将軍家の日光社参のようすを、千住宿が最も記録されている一六四九(慶安二)年の家綱の例を取り上げ、日付を追って見ておこう(典拠は特記する場合を除いて『徳川実紀』第三篇、吉川弘文館、一九七六年)。なおこの時は父の三代将軍家光が在職中で、家綱は将軍就任以前である(将軍就任は一六五一・慶安四年四月)。根拠となる資料は次頁に掲げたので参照されたい。
三月一六日、家綱が宿泊する御旅館(ごりょかん)および休憩を取る御憩息所(おけいそくじょ)の指定が行われた。千住宿は旅館となり次の草加宿は御憩息所、越谷宿は御旅館などとなっている。この時の社参では、越谷から粕壁には向かわず、岩槻城に向かい、そこから幸手へと進む予定となっており、沿道となる日光までの各宿場や城下町に命令が出された。
三月二二日、各宿場や町々に家綱の通行に際しての規則が出された。内容は家の前に砂を敷くこと、行儀良く家綱を見ても構わないこと、二階からのぞくことの禁止などが命ぜられた(禁令は前掲『徳川禁令考』前集第一、二七九号文書による)。
四月一〇日、家綱は江戸城を出発し、千住の旅館に到着した(次頁掲載資料参照)。千住の御旅館に家綱が到着すると、そのことを江戸城にいる父である将軍家光のもとへ使いが出され、江戸城からは酒井忠清が使者として千住に来訪している。さらに地元の代官である伊奈忠治が、食事(御膳)を献上するとともに、舞を上覧に供するなど、様々な儀礼が行われた。そして関係者に様々な下賜も行われた。
四月一一日、本来であれば出発の日であったが、大雨のためにそのまま千住の御旅館に家綱は滞在することになった。そのためご機嫌(御気色)伺いの使者が江戸城や岩槻城から千住に参上している。
四月一二日、ようやく出発の運びとなり、当初、草加が御憩息所となっていたが、越谷まで進んで休憩、昼食となっている。
この後家綱は、岩槻城に向かい、そこで宿泊し、一三日は古河城に宿泊、一五日は小山に宿泊、一六日には宇都宮を経て今市で宿泊、ここを拠点に日光に参詣した。帰りは一九日に今市を出発、二〇日に小山、二一日幸手、二二日越谷での宿泊を経て二三日に千住で休憩して江戸城へ帰った。なお帰りの二三日も大雨だったことが記され、この慶安の家綱社参が天候に左右されたことを象徴していた。
このように一六四九年の家綱の日光社参は、大雨に遭遇してしまい千住で予定外の宿泊が行われた。その際、千住の御旅館では資料でも見えているとおり、様々な儀礼が行われたのである。江戸城と往復する重臣たちや、代官の御膳献や舞の献上や、進物の贈呈など、実に様々な儀式に彩られている。将軍家の日光社参は、それ自体が大規模な幕府の儀礼であるが、御旅館となった宿場も儀礼の舞台となったのである。
一六四九(慶安二)年四月、徳川家綱の千住御旅館記事
(四月十日条)
…大納言殿(徳川家綱)にはやがて千寿の御旅館に着御あり。三丸番土岐伊織頼久もて、そのよしを本城(江戸城)に聞え上給う。本城よりは酒井河内守忠清を御使として、樽、肴を進らせ給う。忠清に時服かづけらる。又駅伝して疱所より魚物を進らせらる。御旅館よりは御謝使として日向守忠能本城に参り拝謁して、ふたたび御旅館に帰る。また駅使もて御気色うるはしくわたらせ給う事を、本城へつげらる。
御旅館にては代官伊奈半十郎忠治御膳を献じ、猿の舞を御覧に備う。忠治に銀五十枚、時服、羽織をたまう。忠治太刀目録、巻物五、伊勢物語を献ず。
天樹院、高田清泰院、千代姫、徳松、長松御方々より、使もて菓、魚献ぜられ、直孝、正之、忠勝、かずかず翫物(がんぶつ)を献じ、堀田加賀守正盛、松平伊豆守信綱も翫物、魚物を献ず。
御旅館構造せし大番荒川七兵衛重政、水上五兵衛正勝、時服。その外大工にも銀若干下さる。またこの地、もと正専寺(勝専寺)の地なれば、住僧に銀百枚下さる。
(四月十一日条)
…大納言殿には、けふ大雨によりて、千寿御旅館御滞留あり。よて堀田加賀守正盛して、御旅館に参り、御けしきとは
せ給う。あぜちの局も参る。松平伊豆守信綱は、子甲斐守輝綱をしてうかがはしめ、阿部対馬守重次も岩槻より来り伺う。紀邸(紀伊徳川藩邸)よりは女房使して、本城へ杉重并魚物、延命酒を奉らる。
(四月十二日条)
尾紀水三世子(尾張・紀伊・水戸御三家の世継ぎ)も、昨日発程ありければ宰相光友卿(尾張徳川)へ書院番森川三左衛門氏時、宰相光貞卿(紀伊徳川)へ書院番彦坂九兵衛重紹、中将光圀卿(水戸徳川)へ小姓組神尾弥右衛門守政御使してとはせらる。
大納言殿には巳刻千寿をたたせ給い、越谷にて昼餉奉る。…
※ 代官伊奈忠治…幕府直轄領の代官。初代関東郡代とも言われる。正専寺…千住二丁目の勝専寺のこと。
※ 本文中の( )内はいずれも編集部註。