この慶安の千住での御旅館造営については、『徳川実紀』にあるように、勝専寺が利用された。これについては「旧考録」にも次のような記載がある。
一、三宮神山勝専寺(さんぐうじんざんしよふせんじ)者、二代将軍秀忠公(にだいしやふぐんひでたゞこふ)様御鷹狩(おんたかのふ)之節(せつ)、御休息所(ごきうそくじょ)ニ相成候例ニ而、家光公(いへミつこふ)様 御代(ごだい)、境内(けいだい)江御茶屋御営(おちゃやおんいとなミ)有之。御(おん)巡狩(かり)之度(たび)毎、被為在御成(おんなりあらせられ)、猶又四代将軍家綱公(なほまたよだいしやうぐんいえつなこふ)様 日光御社参(にっこふごしゃさん)ニ付、慶安(けいあん)二己丑年、御仮御殿御造営(おんかりごてんごぞうゑい)在之候処…
※「旧考録」後編所収「十、勝専寺仮御殿・小菅御殿・鶴竹亀竹」より
この記述によれば、御旅館となった勝専寺は、それまでも秀忠、家光の休息所が設けられており、そうした来歴をうけて家綱の社参の際に、旅館となったとしている。
以上、見たとおり将軍家の日光社参は、回数的に見ると決して多くないが、日光道中独特の大通行の好例である。また、これら将軍家自身の社参のほかに名代を立てての参詣、いわゆる「将軍名代」の参詣は、近世を通じて恒常的に行われていた。