松尾芭蕉の矢立初め

48 ~ 49

 「おくのほそ道」は、言うまでもなく日本を代表する文学作品として知られている。この「おくのほそ道」の旅立ちの地が千住であった。同書の第二段の「旅立」に、次のように千住での旅立ちの姿が描かれている。

 弥生(やよい)も末(すゑ)の七日(なぬか)、明ぼのゝ空朧々(ろうろう)として、月は在明(ありあけ)にて光お(を)さまれる物から、不二の峯幽(ふじのみねかすか)にみえて、上野谷中(うへのやなか)の鼻の梢(こずゑ)又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵(よひ)よりつどひて、舟に乗(のり)て送る。千じゆと云(いふ)所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝく。

  行(ゆく)春や鳥啼魚(なきうを)の目は泪(なみだ)

是(これ)を矢立(やたて)の初(はじめ)として行(ゆく)道なを(ほ)すゝまず。人々は途中に立(たち)ならびて、後(うしろ)かげのみゆる迄はと見送(おくる)なるべし。

※ 杉浦正一郎校註『芭蕉 おくのほそ道』(岩波書店、一九五七年)より

冒頭にあるように、芭蕉は弥生(=三月)の二七日(末の七日)に深川の庵から、舟で千住に赴いた。そして矢立の初(矢立=携帯用の筆)として句を詠んだ。そして親しい人々は千住宿に並んで、芭蕉の姿が消えるまで見送ったと記している。

 旅立ったのは一六八九(元禄二)年のことで門人河合曽良が同行した。「おくのほそ道」の成立は、五年後であるが、文中の有名な句(「行春や…」)は、推敲時に挿入したもので、千住宿に芭蕉が訪れたときには、「若鮎の白魚送る別れかな」であったという。

※ 安藤義雄「奧の細道に係わる事項の総括」(『足立区立郷土博物館紀要』第十一号、一九九一年)所収の井本農一による説。

 なお芭蕉が旅立った旧暦(太陰暦)の元禄二年三月二七日は、新暦(太陽暦)の一六八九年五月一六日にあたり、今日の感覚で言えば、春真っ盛りの頃である。

 「行春や…」の句の「魚」と「若鮎の…」の句の「白魚」はともに、千住の名産「白魚」を詠み込んでいることでも知られている。


奥のほそ道
原本は1694(元禄7)年に成立。写真は1727(享保12)年の写本。 足立区立郷土博物館蔵


芭蕉像
伊賀上野の俳聖殿にある陶像の副。1942(昭和17)年長谷川栄作の作品。
 足立区立郷土博物館蔵