日本全国を測量し、近代的な測量図を作製したことで知られる伊能忠敬は、詳細な日記を今日に残したことでも知られている。千住宿は全国測量の第一歩を記した場所でもあることから、彼の日記に登場する千住宿での様子を取り上げてみたい。
忠敬の測量は一八〇〇(寛政一二)年の第一次測量から一八一六(文化一三)年の第一〇次測量までの計一〇回に及び、彼は少人数の測量隊とともに日本全国に足を伸ばしている。
この一〇回におよぶ伊能測量隊の通行のうち、千住宿を利用したのは次の測量である。
一八〇〇(寛政一二)年 第一次測量 往路・復路
一八〇一(享和元)年 第二次測量 復路
一八〇二(享和二)年 第三次測量 往路
これらの測量は東北から蝦夷地(現北海道)を調査したものであった。のちに忠敬は幕臣となるが、これら第一次から第三次の段階では、身分は「元百姓・浪人」であり、幕府の御用である「測量試」(そくりょうこころみ)を奉じるという立場であった。
つづいて記念すべき第一次測量隊が出発するときのようすを、上に掲げた忠敬の日記から見てみよう。
旧暦の寛政一二年閏四月一九日、新暦で言えば一八〇〇年の六月一一日、梅雨間近のこの時期、出発当日は朝から小雨であったが、幕府の御用をうけて、忠敬は深川を出発。浅草の司天台などで挨拶を済ませて千住に向かった。これに先だって荷物は別に千住宿に船で送り、測量隊も千住宿に向かった。千住宿では測量隊六名を見送るため、忠敬の地元佐原(現千葉県佐原市)や江戸から知人たちが千住宿を訪れた。計二〇名は、昼食をとりながら千住宿で送別の宴を催した。朝からの小雨はこの頃上がった。雨上がりの千住宿で送別の人々の見送りをうけて忠敬の測量隊は旅だったのである。
この第一次測量では復路も千住を利用しており、同年の一〇月二一日(新暦で一二月七日)、草加宿で宿泊した測量隊は、千住宿で出迎えの人々と出会い、出発時ど同様に千住宿で全員で歓迎の酒宴を催した(前掲資料)。その後、第二次測量では千住での送迎の宴の記録はないが、第三次測量の出発時には再び千住宿まで見送りが行われたのである。
■第一次測量出発時の伊能忠敬の日記
寛政十二年庚申年閏四月蒙
台命蝦夷地ニ下向したる道中の記
閏四月十九日。朝五ツ前、深川出立。上下六人。伊能勘解由、門倉隼太、平山宗平、伊能秀蔵、下人佐原吉助、新ニ召かゝへ候長助なり。此日朝より小雨、昼後ニ止。深川八幡宮参詣。夫より両国通り浅草司天台へ立寄。高橋先生ニ而御酒を給、荷物ハ深川より直ニ千住宿へ積送。此日、千住宿送別の人ハ、佐原地頭所より被仰付候渡辺清蔵殿、伊能三郎右衛門、同七左衛門、同繁蔵、小網町伊勢屋菊三郎、支配人鯉屋庄兵衛、堺屋源八、神田時計師弥五郎、天満屋八右衛門、綿屋富右衛門、佐原柏屋幸右衛門、柏木幸七、同時右衛門。千住宿ニ而不残中食。酒肴を以宴別。千住より草加宿へ二里〇八丁。越谷と並ぶ番駅の大沢宿、七ツ頃着して中嶋屋善太郎と云家ニ止宿。
■測量隊の構成
六名(忠敬本人。内弟子三人。ほか二人)。
■送別側の構成
一四名(佐原地頭所の人四人。江戸町人七人。佐原の知人三人。)
※ 出典=「寛政三庚申 蝦夷于役志」(千葉県佐原市・伊能忠敬記念館蔵)