「千住宿辺之図」

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千住宿では宿場であったことと、千住町という村であった二つの性格から、大きく分けると二種類の絵図が作られた。一つは宿並絵図、もしくは伝馬割図と称された宿場、町場としての絵図類である。もう一つは村絵図、耕地図、用水図など、農村としての絵図類である。これに二つの性格を併せ持つ全図(千住宿図)も作製されている。

 全体像を把握できるのが一般に千住宿図と称される絵図で、千住宿全体を描いている。この千住宿図の一つに「千住宿辺之図」(当館蔵)がある。一八〇二(享和二)年という年代が記された絵図で、足立郡に属した千住宿のみならず、荒川(現隅田川)以南の豊島郡小塚原町、中村町を含んでいる。図の記載年代を確認すると、一八三五(天保六)年に埋め立てられて新田となった綾瀬川と荒川の合流部東側流路が水路として描かれ(図面右下)、中州が確認できることから※、少なくとも同年以前の内容であり、一八〇二年という年代と合致する。

※一八三五(天保六)年「武蔵国足立郡千住三丁目新田検地帳」 (当館蔵)による。

 しかし図の周囲に記された文字であるが、これは地誌の記事を写したもので、一八二二(文政五)年頃に成立した「新編武蔵風土記」などが主たる内容であり後に追記されたと考えられる。

 絵図の記載内容は道路、堤防、萱場、水路をはじめ、おおむね千住宿の概要が判別できるように描かれている。耕地部分(現在の足立や中央本町方面)も描かれており、宿場だけでなく、千住町としての範囲も余すところ無く記載されている。また一部には名所と思われる記載もある。掃部宿東側の千本松は、その一つであるが、今日この松については伝来しておらず詳細は不明である。ところで残念ながら隣接する柳原村、弥五郎新田は、図の範囲に含まれるものの記載は村名のみで内容は省略されている。

 本図と同じ内容(地誌記述の無い状態)の絵図が東京都公文書館にある(「千住宿図」)。同図にも「享和二年」と記されており、同じ系統に属する図であることが判明する。また類図として、織畑家文書にも「千住宿図」があるが、これは河川合流部の中州部分の東側水路が埋め立てられた状態で描かれていることから、一八三五年以降の姿と考えられる。

※東京都公文書館蔵「千住宿図」および織畑家文書「千住宿図」については、『江戸四宿』(特別展江戸四宿実行委員会、一九九四年)を参照されたい。


綾瀬川と隅田川の合流部
本図左側が北。中州の半分が千住三丁目の土地(字牛田)。詳細は左の記事を参照されたい。高田家文書「千住宿図」(足立区立郷土博物館蔵)より


 綾瀬川合流部の新田開発と御前栽畑

 現在の千住曙町地先の旧綾瀬川沿岸部分は、1835(天保6)年以前は綾瀬川と荒川、そして荒川下流の隅田川が合流するところで、三つの水路があり、その中央に中洲があった。しかし、綾瀬川から流下する東西二つの水路のうち東側の水路は、埋め立てられて新田となり、1835年の検地で千住三丁目の耕地(牛田耕地)となった。

 この中洲の南部にあったのが、江戸城に野菜を供給した御前栽畑(ごぜんさいばたけ)で、渕江領と葛西領の百姓衆が維持していた。のちに廃止され、御前栽畑跡として江戸の名所の一つとなった。


1802(享和2)年「千住宿図」(足立区立郷土博物館蔵)
周囲に記されているのは「新編武蔵風土記」の記事。

 こうした千住宿図は数多く作られている。高田家文書中にある千住宿図もその一つであるが、いま紹介した千住宿図とほぼ同時期の作成と考えられる古図である。街道と水路が描写されているが、一部に建物や樹木などが絵として描かれている興味深い資料である。これには町並みも描写されており、町並が連続していた千住掃部宿から千住河原町付近のようす(最上段の図)が描かれているほか、問屋場も線画(2段目の図)で描かれているなど参考となる点が多い。なお問屋場が江戸時代に描かれているのは本資料が唯一である。また本図には綾瀬川と隅田川の合流点(鐘ヶ淵)のあたりも中州が描かれており(前々頁掲載写真)、年代は一八三五年以前であることがはっきりする。ちなみに、この中州の北側半分は、図中にあるように千住三丁目の土地であり(字は牛田)、南半分は「御前栽畑(おせんざいばたけ)」とある。この南半分は一七一七(享保二)年から文政期(一八一八~三〇年)に設けられていた「御前栽畑」であり、江戸城に野菜を献上するための場所であった。維持管理には千住を含めた渕江領の百姓と葛西領の百姓が役割を担ったことで知られている。




高田家文書「千住宿図」
町並みや樹木が描かれている千住宿の絵図。ここでは掃部宿から千住河原町(上段)、問屋場から千住三丁目(中段)を参考のために拡大した。方位はいずれも図左側が北となる。
(足立区立郷土博物館蔵)