文政期の千住宿

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ここでは、千住宿明細帳の記述から文政期の千住宿の様子を概観する。千住宿の御定人馬は五〇人・五〇疋。人馬継立に関係して、千住宿には一七四三(寛保三)年に貫目改所が設置された。一八二二(文政五)年には貫目の改めを厳重に行うことを命じられ、従来の秤一挺(はかりいっちょう)に加え、新たに秤二挺が下げ渡されている。次に宿泊機能を見ると、本陣と脇本陣がそれぞれ一軒、旅籠屋が六二軒あった。そのうち、飯盛女を置かない平旅籠は一五軒にとどまっている。千住宿内には寺院が一四か寺、堂社が二一社あり、小塚原町には火葬寺が一九か寺あった。また、渡船場はないが、橋戸河岸と将軍家が鷹狩の際に利用する御上り場があった。

 千住宿の耕地は平坦で、田畑ともに耕作に適した土壌であったが、粘土や砂も混ざっていた。反別は、田が一九七町八反二畝一歩、畑が一八三町六反四畝一七歩で田畑の割合がほぼ半々となっている。作物は、田では中稲・晩稲の稲、畑では麦や大豆などが作られていた。また、日常の食料は、麦に芋・干し菜などであった。各町丁で貯穀していた籾(もみ)・稗(ひえ)が、一八一〇(文化七)年と一八二一(文政四)年に全て貸し出されている。一八二二(文政五)年からの五年間で「詰戻」(返納)をすることになっていたが、水損・旱損(かんそん)で年延を願い出ている。これらのことから、作況が悪い状態が続いていたと考えられる。

 千住宿明細帳には田畑屋敷の質入値段と小作入付地代値段が地目別に記述されている(上表参照)。ここにある値段は、それぞれの目安と考えられるが、町屋敷には値段に幅がある。但し書きには「屋敷質入直段之義は町柄場所等ニより格別高下不同ニ御座候」とあり、屋敷の場所によって値段に数倍の違いがあった。これは宿場として町場化していた千住宿の特徴であったと考えられる。

田畑屋敷質入・小作地代値段一覧
質入値段 小作地代値段
上田 3両2分くらい 米9斗くらい
中田 3両くらい 米8斗5升くらい
下田 2両2分くらい 米8斗くらい
上畑 2両2分くらい 銭3貫文くらい
中畑 2両くらい 銭2貫500文くらい
下畑 1両3分くらい 銭2貫文くらい
町屋敷 15両~6、70両くらい 金3両から6、7両くらい

※それぞれの値段は1反あたりのもの。
「日光道中千住宿村差出明細帳」より作成