耕地の生産性の移り変わり

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 千住というと、日光街道筋に整然と並んだ宿場の街並みのみを思い浮かべがちであるが、千住宿を構成する各町は、そのほかに耕地や屋敷地、寺社地、野などを保有していた。このような土地は、千住宿の街並みを囲み、東西南北のかなり広い範囲に広がっていた。江戸時代に、幕府は耕地などを含めた千住宿の規模を、足立区域の村々と同様に村高(村の生産高)で把握した。その変化を千住町と掃部宿に分けて述べる。千住町は、千住一~五丁目または千住宿北組を、掃部宿は掃部宿・河原町・橋戸町または千住中組をそれぞれさしている。

 千住町は、正保年間には一二三七石一斗一升四合、元禄年間には九六三石一斗五升五合、天保年間には九八五石四斗三升九合、明治初年には九八八石五斗九升九合であり、同町の生産性は、江戸時代前期から中期にかけて一二三〇石台から九六〇石台に落ち込んだのち、九八〇石台で推移したことがわかる。また掃部宿は、正保年間に二〇八石二斗八升九合、元禄年間に二二七石八斗五合、天保年間に二三五石七升六合、明治初年に二三七石八斗八升六合で、同町の生産性が江戸時代前期から中期にかけてに二〇〇石台から二二〇石台に上昇したのちに、二三〇石台で推移したことがわかる。時代が経るにしたがい同町の生産性が向上したといえよう。正保年間に千住町では、田は畑の三倍近くの生産性があり、一方で掃部宿では田は畑の四倍近くの生産性があった。

 このように千住が耕地を保有していたということは、宿場としての機能、役割のほかに、足立区域に一般的にみられる村の機能や役割をも持っていたといえる。