千住宿の町場は、南北に走る日光道中にほぼ直交するかたちで短冊状の地割がなされていた。このことは江戸時代の伝馬割図などから確認できるばかりでなく、今日においても千住の日光道中沿いの地割りから確認できる。
おおむね間口にくらべて奥行きが長い。間口は一、二間(約二mから五、六間(約一〇m)が多かったのに比べ、奥行きは四〇間(七二m)前後という極端に細長い敷地であった。この形状は、江戸時代の町割で一般的であった、武蔵野(多摩地域)などの新田地帯でも見出せる地割りである。こうした地割は人家を計画的に配置する際にとられるもので、排水を考慮したものであった。
間口に対しては伝馬役が賦課されていたことも知られている。一七三四(享保一九)年の「千住宿御伝馬割図」(郷土博物館蔵高田家文書)による伝馬役の課税基準は間口八間につき馬役一疋、あるいは歩行役二人であった。この数値はあくまで基準値であり、伝馬役はこの基準に実際の間口件数を勘案して算出し賦課されている。
※ 間口が狭い理由として、間口を単位に税金が賦課されたためという説明が見られる。たしかに伝馬役は間口を単位に賦課されるものの、こうした役が賦課されない農村でも、こうした長方形の地割があることでも判るように、俗説の域を出ず、排水を前提とした地割と考えるのが妥当である。
千住宿の町場の地割
日光道中の左右に短冊状の地割が行われている。図は千住一丁目から二丁目にかけての部分で、左側が北になる。図の上下に囲むように記されているのは悪水落で、狭義の宿場(町場)は、この悪水落を東西端(図では上下)までである。(足立区立郷土博物館蔵永野家文書)
一筆内の敷地の利用状況を示す資料の一つに、明治前期の屋敷地の図面がある。江戸時代もおおむね同様の状態だったと考えられるので、参考掲出したのが上の図である。
一筆の地内に地主の家作の他、地借り(土地の借用者)、店借り(建物の借用者)の家作が混在していることが確認できる。この一筆の土地は伝馬割図や検地帳などでは一筆で記載されているのだが、実際の土地利用に関しては数筆に分かれていたことが確認できる(地借・店借については後述)。