この年の末になると将軍家茂の上洛に向けて、警備体制の強化が図られ、千住も酒井忠良に加えて、両国橋の警衛をつとめていた近江宮川藩の堀田豊後守正養(ほったぶんごのかみまさやす)が加わった。
※ 将軍家茂の上洛は、この年の三月に行われたが、さらに年末に再上洛が準備され、翌一八六四(文久四)年一月に再上洛が行われた。千住宿の警衛が行われたのは、この再上洛時である。
このとき幕府から出された命令書は上に掲げた一八六三(文久三)年十二月十六日付のものである。
文中を見ると、「千住御警衛持場」に人数(兵員)と武器を配置した上、江戸の府内に入る者を厳重にチェックするよう命じている。さらに、この警衛を通過しようとする者には、領主の「調印書付」、つまり印鑑を押捺した通行証を持参することが義務づけられたようだ。通行証がない者が来たら、足止めさせた上、「いっさい通してはいけない」とも述べている。これは大変厳しい通行規制であり、江戸と周辺が厳戒態勢に入っていったようすが見えてくる。
このように千住宿が警衛を行う機能は、この文久三年にはじまり、戊辰戦争期まで続いていくことになる。
■千住宿非常警衛につき達
酒井大学頭
御上洛御留守中御取締のため、千住御警衛持場へ、明後十八日より人数、武器等差し出し、この程御達候趣を以って、江戸表へ立入候者、領主・地頭・調印書付持参これ無き者は、厳重に差し留、一切通行致させまじく候。もっとも、この度堀田三四郎(のち豊後守正養)儀も、同様仰せ付けられ候間、諸事申し合せ、相勤らるべく候。委細の儀は、海陸御備向掛御目付へ談じ候。
堀田三四郎
同文言。千住御警衛仰せ付けられ候間、明後十八日より。もっとも酒井大学儀も仰せ付けられ候。これにより両国橋御警衛御免なされ候。
※ ここまでの記事はいずれも『東京市史稿』市街篇第四十七(東京都、一九五八年)による。