千住に警衛が設置され兵士の屯所、柵門、すなわち関所が設けられたことは、少なからず足立の村々の生業に影響を与えた。具体的には江戸に米や野菜を出荷するときの障害となっていくのである。続いてそのようすについての資料を見ていこう。
郷土博物館の複写収集資料の中に古千谷の馬場家文書の一部があり、千住警衛についての触書などが記載されている(次頁上段掲載資料①)。なお文中の「関所」「番所」とは、村側から千住の警衛を指した言葉である。
この古千谷で伝えられた触書は、幕府代官木村董平(とうへい)が出したものである。これによると一一月には通行規制の強化が図られ、足立の村々でも厳しく命令が伝えられたことが判る。公用・私用を問わず「印札」(通行証のこと)が無ければ江戸に行ってはいけないことや、将軍の上洛中はとくに用事がなければ江戸に行ってはいけないと命じている。
つまり一八六三年の八月に設置された千住警衛が通行規制を担い、このように村々に対して触を出した上で、先にみた一二月段階の強化が行われたのである。
警衛が強化された一二月になると、古千谷村の人々は、代官に命じられ請書(上段掲載資料②)を提出している。
これを見ると古千谷村では七枚の「印札」(通行証)を受け取り、規制の趣旨を守ると誓約を行っている。
ところで古千谷村は七枚の通行証だけでは通行の需要を満たさなかったようである。資料には次のような記述もある。
右御印札、郷中へ七枚にては、通し売り、肥積そのほか千住宿御見張の通行出来かね候につき、村印鑑を以って、御願い上げ候ところ、御聞き済ませ、村印札にて通行いたし候。
※ 典拠は上段資料に同じ。
これによると、古千谷村は「代官から渡された七枚の通行証だけでは、農産物の出荷(通し売り)や、肥料の輸送(肥積)で、千住宿の関所(御見張)を通過できない」という状態であったことを記し、「そのため村で発行した印鑑(通行証)を使いたい」と幕府(代官)に願い、承認されたので、「村が発行した通行証を利用した」としている。幕末の政治情勢が生業に影響を与えた一つの事例であった。
①関所触書
今度、御上洛、御留守中御取締向、一際(ひときわ)厳重に致すべき旨仰せ出され、来ル廿日より御関所、并江戸出口宿々番所等、みだりに出入出来がたしに付、別紙印札相渡す間、村役人方へ預り置き、御年貢納、その外御用筋の者は申すに及ばず、差向候私用、あるいは魚類、青物等の諸稼ぎにて、御府内へ罷り出で候者は、村役人吟味の上、相渡し、右印札をもって、御関所、番所等の改めを諸けまかり越し、脇道、間道を越す儀は、決して相成りがたき条、その意を得よ。追て帰村の上、右印札は村役人中へ引き上げ、いささかも不取締の儀、これ無き様取り計らうべし、かつ差掛り候用向これ無きものは、御留守中出府の儀無用たるべく候、
右之通、小前末々まで残らざる様、厳しく申し付け、承知の趣、村役人小前連印の請書、早々差し出すべきもの也、
木村董平
亥十一月十九日 役所
②古千谷村請書
差上申御諸書之事
右の通り仰せ渡され、一同承知おそれ奉り候、かつ御印札七枚、村役人へ御渡しあそばされるよう願い奉り候。よって連印御請書、差し上げ申す所、くだんのごとし。
木村董平様御支配所
文□(久)三亥年十二月 武州足立郡
古千谷村
(請人七〇名の連印省略)
百姓代 藤五郎(印)
文久三亥年十二月(衍カ) 〃弥三郎(印)
年寄 清吉(印)
〃 七右衛門(印)
〃 伊左衛門(印)
木村董平様
御役所
※郷土博物館複写収集資料。古千谷・馬場家文書「御上洛ニ付、御留守中御取締向并御請書」より