鳥羽伏見の戦いののち、正月十日付で官軍は徳川慶喜から官位と領地を剥奪し朝敵であると位置づけ、幕府軍として戦った諸大名の処分などを記した触書(ふれがき)を出した。この月のうちに触書は千住宿に到着したが、当時の千住宿の役人たちは驚きを隠せなかったらしく次のような記録が残っている。
この廻状の儀は、心得がたく候につき、中仙道板橋宿より請け取り、御支配佐々井半十郎様御役所へ差し上げ候処、御請け取りにあい成り候事、
※旧千住北組浅香家文書「御伝馬御用留」筆耕原稿(荒川区立ふるさと文化館所蔵)。本資料は原本の所在が不明となっており、筆耕原稿のみが伝来している。以下「御伝馬御用留」と略す。
文中にあるように、千住宿の役人たちは徳川慶喜が朝敵であるとする内容に納得がいかず、当時の代官であった佐々井半十郎の役所へ廻状を届けたのである。千住宿の人々にとって徳川慶喜が朝敵となったのは驚きであり、納得が出来なかったのである。
鳥羽伏見の戦いの後、幕府軍は江戸へ撤退したが、新政府は、東征大総督を任命して東征を開始。東海道、東山道、北陸道の三道それぞれに総督府を置き、江戸へ向かった。徳川慶喜は江戸に帰った直後は抗戦を試みる姿勢を見せていたが、二月になると一転、謝罪恭順の姿勢をとり、江戸城を出て寛永寺に謹慎した。しかし幕府内では抗戦を主張する勢力があり、混乱が生じていた。