三月になると、官軍は関東に刻一刻と迫ってきた。江戸の徳川政権は、慶喜の恭順表明にもかかわらず恭順派と抗戦派が混在していた。実際、関東に迫る官軍と幕府軍との間で戦闘も発生していた。京都で武名をとどろかせた新選組も、甲州(山梨県)に「甲陽鎮撫隊」の名前で出陣。三月六日には、東山道総督府指揮下の官軍(以下「東山道軍」と略す。他の東海道、北陸道も同じ)と勝沼で戦火を交えたが敗退した。また下野梁田(現栃木県)でも幕府歩兵隊と東山道軍が衝突していた。
こうした戦闘を経ても官軍は着々と江戸に迫り、三月一五日を期して江戸城を攻撃する態勢を整えつつあった。三月一二日には東海道軍の先鋒が品川宿に到着、一四日には東山道軍の主力が板橋宿に入ったのである。