彰義隊士の千住宿偵察

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官軍の江戸包囲網が形成されるなか、千住宿でも事件が起こった。のちに上野戦争で戦う彰義隊士が、翌一五日に江戸城攻撃を予定していた官軍を迎撃するため、三月一四日頃、千住宿で偵察を行っていたのである。隊士の阿部弘蔵は、ほかの二名とともに爆薬を携行して千住宿に入り、官軍を爆殺しようと試みた。彼等は千住大橋の状況や千住宿での藩兵の駐屯状況をつぶさに偵察した。しかし、当時千住宿に官軍の姿はなく、幕府が設置した千住警衛(前掲)が各家々に分宿したり警備を行っているだけであったため、彼等は引き揚げたのである(上掲資料参照)。こうして千住での対官軍戦闘は避けられた。そして官軍の江戸城攻撃も中止、無血開城することとなり、江戸とその近郊はとりあえず兵火にかかる危機を脱した。


■彰義隊士の千住宿偵察記事(「槐陰雑記」阿部弘蔵稿より)

    千住口先鋒隊の探偵

…略…東下の藩兵明日をもて江戸討ち入りの手筈のよし耳にしければ、こは一大事なりと俄に穿鑿を遂ぐるに、全く誤なきものゝ如くなれば、余等の心尽しも是までなり、かゝる上は最早寸時も容赦はならずとて、兼て用意したる火薬にて千住口なる藩兵屯集の本陣に地雷火を仕掛け、一爆の下に其の兵衆を応殺して、先鋒の胆を挫ぎ、然る後、我が生地に屍を肆(みせ)さんものをとて、余等は、先づ千住口なる先手の兵の様子を伺はんとて、林半蔵・糸賀藤三郎の二人をかたらひ、余は黒紋付の羽織を著し、一本の脇差をおび、総髪を利用して、医者の塾生を装ひ、半蔵は、朴直の風したる人物にて、髪も江戸風の刺りがへしの野郎頭(アタマ)なれば、医僕に擬して、千種の股引に横縞のどてらを纏ひ、藤三郎は、こゝらあたりの商売の風に摸し、火薬並に附属の什器を大風呂敷に包みて半蔵之を負ひ、他の装置設備に要する器械は藤三郎これを荷ひ、其の日の暮六ツ時まはりたる頃、問(ヒソカ)に上野山内を出で、五ツ時過ぐる頃、大橋にかかりしに、何れの藩やらん、五六人龕燈(かんとう)を手にし、小銃を負ひて、いと厳重に橋上を巡邏警戒し、燭を照して、通行の人々を射、来往せるものゝ少しにても怪しと認めらるゝものには、筒口を向け、一々誰何す、余等の如きは、彼等にとりては恐るべき謀計を包み、驚くべき企図を懐きたるものにして、死は素より覚悟の前とはいひながら、おごそかなる此の有様には、我ながらはたと困ぜしかど、一旦決意せし大事のかくてはならじと臍を固めて、相前後して、こゝを通過せしに、一人の怪訝を受けざりしは、実に神護といふ外なし、こゝより同行の三人、道の右手なる田圃の中に潜み、その目的の場所を打合せ、充分に探偵を遂げ、再び此処に相会し、仔細に相議して、事を挙げんと約し、互に相別れて、駅の裏手に迫り、藩兵どもの用宿にあてられたる民家の庭に、又はその屋後なる墻(しょう)を越え、板塀(イタベイ)を上りなどして、忍び/\に入りこみて、詳細にさぐりしに、何れの用宿も物静にて、明日の用意なき如く察せられたれば、討入の挙の俄に止みしか、又は余等の間違へなりしか、何にもせよ、戦争の手筈なき事判然たれば、余第一にさきの打合の場にもどりて、待合せたるに、糸賀、林の両人も、亦帰り来り、その探りたる模様を聞くに、余のさぐりたる所と符合せるをもて、余二人に向ひ、さて明日討入の企あらざる事かく定かなりし上は、好みて事をあらだてゝ、吾が隊の後日の不利になるやうにては、折角の労苦も水泡に属するをもて、一先づ帰営し、徐に慮らんこそよからめといふ、遂に三人一致して、明け近き頃に、別れ/\に山内なる寒松院にもどりて、別の事どもつばらに隊の首領の者に語りしに、余等の苦心をいたく感謝し、併せてその計らひの穏当なるを激賞せり、品川口のかたに出でたる者もありしやに覚ゆれども、今は記憶せず、…略…

※ 山崎有信『彰義隊戦史』(隆文館、一九一〇年)所収。のち大空社一九九七年復刻本(アジア学叢書22『同名』)を利用