北陸道軍の宿陣から間もない四月八日、今度は徳川慶喜の江戸退去の先触れが千住宿に到着した(「御伝馬御用留」)。当初、官軍は慶喜を備前藩に預けようとしていたが、江戸開城交渉の過程で、水戸への謹慎蟄居(きんしんちっきょ)という方針に改めたため、千住宿を通って水戸へ退去することになった。この年の一月の段階では慶喜の朝敵という知らせに驚いた千住宿も、慶喜の退去の準備を行うことになったのである。
慶喜退去は、当初一〇日と予定され、千住宿にもその旨の通知がり、宿場では請書を北陸道軍に提出していたが(上掲資料①)、江戸城の官軍引渡(江戸開城〈一二日〉)の前日の一一日に順延した知らせが北陸道軍にもたらされた(上掲資料②)。なお慶喜の退去にあたって官軍は警戒を強め、渕江領など周辺の諸領に「一同安心渡世まかりあるよう」と達書を出した。
※ 『復古記』第一一冊(前掲)「北陸道戦記」第四および入本英太郎『三河島町郷土史』(三河島町郷土史刊行会、一九三二年)。
江戸城が無血開城の前日、慶喜は一六〇〇人の随行者とともに水戸へ向かった(水戸到着は三月十五日)。前将軍が千住で江戸に別れを告げたこの事件は、その後も演劇などに取り上げられ、絵にも描かれて今日に伝わっている。
この月初めの官軍宿陣や、代官の勤王証書提出、そして一一日の慶喜の江戸退去は、一二日に行われた江戸開城とともに、一五九〇(天正一八)年の家康入府から長く続いた徳川氏直轄領としての時代の終わりを告げる象徴的な事件であった。
※ 慶喜随行の人数については大目付、日付のほか遊撃隊、精琉隊などの諸隊があった。これら慶喜退去時の随行人数と構成については「御伝馬御用留」(前掲)による。
■徳川慶喜の江戸退去と千住宿
①千住宿請書
乍恐以書付御請奉申上候
一日光道中千住宿役人惣代年寄勘兵衛、六左衛門奉申上候、明後十日徳川慶喜様御儀常州水戸表江御発駕被遊候ニ付、人馬御継立向聊差支無之様并宿内不取締無之、且火之元等念入取締方致、都而差支無之様厳重被仰渡承知奉畏候、依之御請書奉差上候、以上
日光道中千住宿
役人惣代
年寄 六左衛門
慶應四辰年四月八日 勘兵衛
北陸道
御総督様
御会計様
御役人衆中様
②徳川慶喜退去記事(「官軍達書」ほか)
○諸軍へ達書
徳川慶喜、明後十日水戸表へ引取候趣ニテ、千住宿昼休致候旨注進候、就テハ書手飽迄鎮静、暴発箇間敷義有之間敷旨御沙汰候間、此段執達如此候、以上。
戊辰四月八日 会議所
与板藩記
○北征紀事ニ云、四月八日、田安中納言、使ヲツカハシ云ク、徳川慶喜、明後十日水戸ニ退去ス、千住駅ニ於テ昼餉ス、故サラニ督府ノ許可ヲ請フ、之レヲ許ス、十日慶喜上途、明十一日ニ延緩ス。
※ ①「御伝馬御用留」②『復古記』第十一冊「北陸道戦記」第四、