このように北の奥州道中方面の戦闘に続いて、東南の房総方面でも官軍と幕府脱走軍の戦いが続いていた。
閏四月に入ると市川に集結していた幕府脱走軍と官軍の間で戦端が開かれた(市川・船橋戦争九五頁参照)。この急報を得た東海道軍は、さきに誠忠隊の降伏時に千住と榎戸に陣を布いていた佐土原藩兵と備前藩兵が八幡方面に展開していたのに加え、閏四月三日に副総督柳原前光の指揮(鎮撫討伐使(ちんぶとうばつし))でこれを迎撃することとし、長州藩兵を現地に派遣するとともに副総督自身と下野に展開していた大村藩兵を呼び戻し、千住に布陣するよう命令を出した。こうして副総督の柳原と大村藩兵は翌四日に千住宿に到着し。副総督の柳原は源長寺に入った。ここで副総督と大村藩兵は隊伍を整え、房総方面の脱走軍との戦闘に備えた。閏四月五日まで副総督は千住に宿陣。この日、市川へ向けて出撃し、国府台に布陣した。
※ 出典=『復古記』第十冊(上掲)「房総戦記」第十七所収
ここで見たように一八六八(慶応四)年の四月後半から閏四月まで関東各地で行われた幕府脱走軍と官軍の戦闘で、千住宿は官軍の物資輸送や宿営地として機能した。これは主として江戸の東方に集まった幕府脱走軍と官軍主力が布陣する江戸との間に千住宿が位置したことに起因する。大鳥脱走軍や岩井の誠忠隊等への官軍出陣は千住から行われ、その事後処理である誠忠隊の千住での官軍との対峙は、一触即発の危機でもあった。そして市川戦争へ派遣された官軍も、いま見たとおり千住宿を一つの拠点としていた。
このように東北戦争の直前、関東において繰り広げられた戊辰戦争の各場面で千住宿は官軍の拠点、基地となって機能したのである。
閏4月4日の千住
千住宿に房総方面の幕府脱走軍を鎮撫するため、東海道軍副総督柳原前光が鎮撫討伐使となり大村藩兵とともに千住宿に宿陣。副総督の柳原は千住掃部宿の源長寺に入った。その後、新宿を経由する佐倉道で市川へ進軍。翌五日には国府台に布陣した。『補訂戊辰役戦史』によると、浜松藩兵も副総督と行動をともにしたという。
※ 市川方面に展開した佐土原藩兵、備前藩兵はともに前月末、千住宿と榎戸宿に布陣していた。
幕府脱走軍 撤兵隊
市川に布陣していた幕府脱走軍は「義軍府」と呼ばれている。江戸開城とともに木更津に脱走した撤兵隊が中心となり成立。4月24日には船橋まで進出していた。
幕府脱走海軍の影響
副総督柳原の動きで見えるように、官軍は江戸から房総方面へ出撃するときに千住宿まで迂回しているが、これは江戸湾に残っていた幕府脱走海軍(榎本艦隊)を警戒したことが影響している(「房総戦記」、『復古記』第10冊所収)。
■東海道軍の房総出陣に伴う大村藩への連絡記事
大村藩 渡辺清左衛門へ
明四日東南為鎮静、副将千住駅エ進陣候、就テハ其方同駅迄立帰候上ハ、軍監参謀之心得ヲ以、安場一平申談万事輔佐可有之事。
後四月三日 総督府
※ 出典=『復古記』第十冊(東京大学出版会、一九二九年刊、一九七五年復刻版を利用)「房総戦記」第十七所収