四月後半の一連の官軍布陣や出撃などがあった頃、千住宿を担当していたのは越後高田藩兵であったが、同藩は不審な点があるとして、北陸道総督府から閏四月一日に国元への撤収と千住宿警備の任の解除を命じられた。どうやら一連の官軍の行動に際して、警備担当の任を全うしていないと捉えられたようである。
これと同じ頃、やはり千住宿の役人たちが総督府に取り調べられるという事態が発生した。次の資料は残された宿役人による嘆願と身元引き受けを物語るものである。
差上申御願書之事
一、武州足立郡千住宿問屋雄三郎、年寄忠蔵、新之助、勘兵衛、助郷惣代名主恵蔵、右のものども、同宿人馬継立方の義につき、不都合の義これ有り、召し呼ばれ御調中御差し留めに相成り居り候ところ、今日御陣替につき、私共より嘆願たてまつり候ところ、御預け仰せ付けられ、たしかに預りたてまつり候、不取締の義これ無き様、精々心付罷り在り、御用之節は何時にても、召し連れ罷り出るべく候、後日のため御願書差し上げ申すところ、くだんの如し、
御本陣詰合
名主惣代
謙吉
慶応四閏四月朔日 吉良
啓次郎
北陸道
御総督府会計方
南部彦助様
岡枝岩太郎様
※ 「御伝馬御用留」
これを見ると、頻発した人馬継立て不都合が発生したため、問屋、年寄、助郷惣代という宿場の主要役人が総督府で取り調べを請け、足止めされていたことがわかる。越後高田藩兵の撤収(てっしゅう)が命じられたため(前掲資料中では「御陣替」)、宿場本陣に残留していた名主惣代たちの嘆願によって、勾留(こうりゅう)していた宿場役人を返してもらったと記している。度重なる人馬継立に奔走した千住宿役人たちは総督府の取り調べを請けて譴責(けんせき)されていたのである。度重なる継立や軍資金等の徴発という負担を担いつつ、業務を遂行した宿役人に対して、官軍の取り調べがあったことは、この時期の千住宿が厳しい状況にあったことを物語っている。