彰義隊の屯所となっている寛永寺には公現法親王がいたことなどがあり、官軍は戦闘を避けて和解交渉を続けていたが、大総督府も武力による彰義隊排除の方針を固め、攻撃期日を五月一五日とした。
前日には官軍は配置を定め、諸軍に通知した(上掲資料参照)。千住宿にも因州藩兵(鳥取藩)一〇〇名が配置され、区内ではほかに沼田に肥後藩兵(熊本藩)五〇名が配置された。こうした千住や沼田への官軍の布陣は、上野寛永寺の包囲網の外郭であった。こうした千住などへの布陣は『補訂戊辰役戦史』(前掲)によると、「江戸から諸方に通ずる主要出入口、特に千住方面(千住大橋、川口等)には兵を配置した…」としている。これは、これまでの幕府脱走軍の江戸川左岸への屯集などの経緯を踏まえたものであった。
こうした主要な配置のほかにも東海道軍の重士隊や銃隊が千住に派遣され、のちに沼田へ移動するなど官軍の配置が進んでいった(『復古記』第一一冊「東叡山戦記」第二)。そして一五日の朝までに、千住や沼田を含めたこれらの官軍は配置に付いた。
■官軍の兵糧米、軍資金の徴発
軍配
湯島ヨリ黒門前 薩州 肥後 因州
本郷 長州 肥前 筑後 大村 佐土原
富山邸 肥前 筑後
水戸邸 備前 伊州 佐土原 尾州磅〓隊
一橋御門ヨリ水道橋 阿州 水道橋ヨリ水戸邸辺 尾州
聖道近辺 新発田
森川宿追分辺 備前 大川橋 紀州
軍監両人差添
千住大橋 因州 川口 大久保与市 沼田 肥後
戸田川 備前 下総古河 肥前 武蔵忍 芸州
同川越 筑前 江城日誌 東征紀略
○按スルニ、岡山藩記、本書ト異同アリ、因テ左ニ附録ス。
大川橋 紀州 百人 千住 因州 百人
沼田 肥後 五十人 川口 大久保与一郎五十人
戸田 備前 五十人 忍 芸州 五十人
川越 筑前 五十人
湯島ヨリ黒門前エ 薩州 百人 王子辺 筑前 百人
四斤半弐挺 因州 百人 芸州 百人
臼砲弐挺 肥後 百人 伊州 百人
芸州 二百人
本郷辺 大村 五十人 中 米利堅弐挺 備前
長州 二百人 水府邸
仏蘭私式弐挺 磅〓隊
佐土原 八十人 四斤半 佐土原
肥前 百人 臼砲三挺 備前
同 壱挺 佐土原
同 弐挺 伊州
一一橋門ヨリ水道橋 阿州 一水道橋ヨリ水戸邸辺 尾州 百人
一本郷聖堂近辺 新発田 一森川宿追分迄 備前 百人
…略…
○達書四通
追々御達之趣ニ付、弥明十五日朝三字マテ、大下馬へ可相揃事、
五月十四日黒田長知
大村純煕家記
※『復古記』第十一冊(前掲)。「東叡山戦記」第一