一五日の早朝、現在の上野広小路付近で官軍と彰義隊は銃火を交え、戦闘がはじまった。火力にまさる官軍の攻撃によって、彰義隊は徐々に黒門まで後退していった。その後、黒門口が突破され官軍は寛永寺境内に流れ込んだ。夕方には官軍は凱歌を奏し、寛永寺の諸堂は兵火に遭い燃え上がっていた。残った彰義隊士は寛永寺から脱出をはじめ、千住でも偵察行動を行っていた筑後久留米藩兵が、三〇名ほどの銃や槍で武装した彰義隊士と遭遇し、銃撃戦が発生した(上掲資料参照)。
■彰義隊士と久留米藩兵の銃撃戦の記事
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一十五日、金座警衛弊藩人数、千住迄巡邏仕候所、残賊砲鎗之隊伍相備、凡三十人突出、弊藩之巡邏見掛発砲仕候ニ付、此方ヨリモ発砲仕候処、賊退散仕候、
…略…桑原文司○有馬頼咸家記
※ 出典=『復古記』第十一冊(東京大学出版会、一九三〇年刊、一九七五年復刻版を利用)「東叡山戦記」第二所収