彰義隊の口伝

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このように千住では官軍の配置があったことに加え、戦闘が発生していた。こうした背景から当時の記録は不足しているものの、千住には口伝が記載された資料が残っていたり、今日まで伝えられている伝承がある。上に掲げた記録は戦前に作成された千住に関する聞書であるが、これによると、官軍は千住大橋の橋板をはがして通行を止め、さらに捕縛した彰義隊士を斬首(ざんしゅ)、大橋際の交番のところで首級(しゅきゅう)を曝(さら)したと記されている。この聞書には南千住の円通寺に彰義隊士が葬られたことなどが記されている。彰義隊士自身も記録を残しており、元関宿藩家老の木村正規(維新後、山田大夢と改名)が記した「戊辰後経歴」(『地方史静岡』第六号、静岡県立中央図書館、一九七六年所収)が知られている。これによると木村は上野を脱出し尾久村(現荒川区尾久)で一泊、千住へ出ようとしたがすでに官軍が固めていたため、西新井、舎人を経て鳩ヶ谷へと向かったことが記されている。

 次に、今日伝えられている上野戦争に関する言い伝えを掲げたのが左の一覧である。区内では千住の他に現在の江北、鹿浜、梅島、保木間、六月で脱出する彰義隊士にまつわる言い伝えが残っている。いずれも脱出する彰義隊士をかくまった、もしくは遺体を埋葬するという話である。これらの話には後日談がある。高野村の浅賀家に残る言い伝えでは、深手を負った彰義隊士村越某(旗本という)をかくまったが、傷が癒えたのち、千住四丁目で易学業を開いたという(『足立風土記稿』地区編3・江北参照)。

 足立区域は彰義隊士の脱出経路となっていたことや千住や沼田(現江北)に官軍が配置され戦闘もあったことから、地域の記憶が残されたと考えられる。


■彰義隊士に関する口伝の記録

千住に彰義隊の落武者

慶応四年辰五月拾五日、上野戦争の時、彰義隊の落武者を禦じ、為に官軍ハ千住大橋の橋板を取りはがし生捕せし者ハ、其の者の首を切り青竹を三本立て、今の交番の処に是を曝し有し。

※ 出典=郷土博物館複写収集資料。井上仙吉「南北千住町今昔見聞実記」、一九二〇年永浦一真書写、一九四一年山崎孝也再写加筆

千住の彰義隊の言い伝え
場所 内容 出典
千住河原町
千住仲町
 逃げてきた彰義隊士3人が、現在の内山観光や足立公共職業安定所あたりで官軍に捕まり、斬られた。 千住仲町
長谷川浩平さん談
千住仲町  傷を負った彰義隊士1人が虫の息で長谷川家屋敷(荒物問屋)内の蔵と蔵の間に潜んでいた。これを見付けた家の者は蔵の中の品物の間にかくまった。
 一ヶ月たち傷が癒えると店の手代の格好をさせ春日部方面に荒物の卸しに行くとき、荷車の後押しをさせ東北へ逃がした。その際に刀の大小を置いていった(戦時中にこの刀の大は破棄し小は他人に譲渡)。
千住四丁目  横山家屋敷(紙問屋)の日光道中に面した紙の荷下ろし場の刀傷は、逃げてきた彰義隊士がつけた。 千住四丁目
横山佐吉さん談

桑原功一氏の調査による。