上野戦争後の混乱は、その後も江戸四宿などで続いていた。一六日にも総督府による警備が厳重であり、「見附々々は諸藩の兵厳しく守りて、一々通行人を検め、品川、新宿、板橋、千住の出口々々は総督府参謀の手形なくては通行叶わず」といった状態だった(『彰義隊戦史』前掲)。
世情は混乱しており、総督府参謀は高札を各地に掲げて治安安定をはかった。千住宿にも総督府から役人が派遣され、一六日付で二枚の高札が出され、千住宿役人(年寄)が受領した(「御伝馬御用留」)。一枚は彰義隊士をかくまうことや扶助することの禁止で、もう一枚は上野戦争の大義名分と、生活の安定を諭す内容であった。このうち、二つめの高札が千住に伝来、現在、当郷土博物館に収蔵している(上段写真及び中断の翻刻資料参照)。この高札文面では、文末に「きっと安堵いたし、おのおの生業を営み、その分に安んずべきものなり」と、混乱した世情を安定化させようとした総督府の意図が表れている。
高札が出された後も上野から脱出する彰義隊士を探索する官軍の動きが続いていた。一八日には千住にいた官軍(池田摂津守人数)などが茗荷谷へ向かう動きなども記されている(前掲『復古記』第一一冊所収「東叡山戦記」第三)。しばらく、こうした官軍と脱出する彰義隊士の騒動が千住宿を覆っていた。
この上野戦争の終結は、江戸と近郊の戦闘の終焉でもあった。これ以後も戊辰戦争の影響は、千住宿に及ぶものの、それは後方としての影響であり、戦闘に直接かかわるものではなかった(後述)。
■高札の翻刻 (郷土博物館蔵)
覚
徳川慶喜恭順之実効を
表するにより祖宗之功労被
思食、家名相続□(被)(平出)
仰出。城地禄高等之儀も追々
御沙汰に相成、末々之者ニ至迄各
其所を得ざる者無之様被遊度との
思食ニ被為在候処、豈図んや
籏下末々心得違之輩、至仁之
御趣意を拝戴し奉らざるのみならず、
主人慶喜之素志に戻り謹慎中之
身を以、恣ニ脱走ニ及ひ所々屯集
官軍ニ相抗し無辜之民財を掠奪
兇暴至らざる所なく万民塗炭之苦ニ
陥らんとす。故に今般不得止之れを誅伐せしむ。
素より其害を除キ天下を泰山之安察きニ置
億兆之民をして早く安堵之思ひをなさ
しめん為なれバ、猥に離散する事有へからず。
篤く
御趣意を体認し奉り末々之者に
至る迄聊心得違無之屹度
安堵致し各生業を営み其分に
安んずへき者也
慶応四年 大総督府
辰五月 参謀