芸州供養塔

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千住一丁目の不動院に、こうした東北戦争へ従軍した人々の供養塔がある。「芸州供養塔」と呼ばれるもので、官軍の芸州藩(安芸(あき)広島藩)の士庶混成の義勇隊であった応変隊に従軍した人々への供養塔である(以下「応変隊」については、棚網保司「不動院『芸州』供養塔について」、『足立史談』一九〇~四、一九八三~四年による)。この応変隊は、北陸道総督の四月三日宿陣部隊のなかに含まれていた部隊で、その後も千住宿の警備を担った北陸道総督府の管下にあり、言ってみれば馴染みの隊であった。その後五月一五日の上野戦争に参戦後、六月一九日に千住を経て二二日には藤原口で交戦、日光守備のため今市に布陣したあと、八月には会津戦争に参戦、会津田島から若松城下へと進んだ。

 芸州供養塔には一六名(判明分)の戦死者が記されているが、彼らは会津田島や会津若松城下の戦闘で戦死した応変隊軍夫(輸送隊)を勤めた人々であったという。安芸出身者以外で軍夫をつとめた人物の名が記されており、会津落城後、慶応が明治と改元された九月に建立されたものであった。


上野の彰義隊士の墓


旧寛永寺の黒門
上野戦争後南千住円通寺に移されていた。
戦闘時の弾痕の跡が残る


芸州供養塔 不動院の境内にある会津戦争の戦死者の供養塔