官軍の帰還と降伏者の引き渡し

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一〇月一一日になると会津在陣の会計官から官軍が江戸に帰還するので、各宿場は準備するようにと言う触書がもたらされた(「御伝馬御用留」)。これ以後、千住宿は再び官軍の移動拠点となっていく。

 千住宿では一五日付けで官軍の引き揚げ時の宿泊で、再び布団などの用意を助郷村々に命じるよう貫目改所に願い出た。最初の官軍宿陣時のように布団が不足するという事態を避けようと言うのである。これをうけて貫目改所では、渕江領や周辺の諸領の村々九七か村に布団の徴発を命じた(「御伝馬御用留」)。こうして千住宿では準備を整え大規模な継立と宿泊を要する官軍の帰還に備えた。

 官軍の帰還宿陣は、一〇月二〇日頃からはじまり、長州藩、土佐藩、薩摩藩といった官軍の基幹部隊や太政官会計方などが相次いだ。日をおかず次々と帰還してくる官軍の規模は大きく、千住宿でも対応に追われた。

 そしてこの官軍の帰還には、一つの大きな特徴があった。それは会津藩や仙台藩などの降伏者が随行してきたことと千住宿での引取先への引き渡しであった。幕府脱走軍や奥羽諸藩の降伏者は、官軍とともに奥州街道を江戸に向かい、例えば幕府脱走軍の降伏者は将軍家を相続した静岡藩へ、また仙台藩の降伏者は、親戚関係にあった伊予宇和島藩へといった具合に、それぞれの引取先に引き渡された。

 こうして、千住宿は、その引き渡しの場所となった。上に掲げた事例は美濃郡上(みのぐじょう)藩の脱藩者の引き渡しに関する記事である。郡上藩は二月段階で新政府側に付き、官軍の一翼を担っていたが、朝比奈茂吉以下の脱藩者が会津に向かい、会津若松で官軍に降伏した。けが人は奥州で療養していたが、ほかの生存者は長州藩と大村藩とともに一〇月二四日に千住へ到着。郡上藩士の戸川貞右衛門が千住に出向いて官軍から身柄を引き渡された。彼らは東京(この月、江戸は東京と改称)には入らず、千住大橋で郡上藩が用意した船に乗り、国元へ向かったのである。