この官軍の東京帰還にともなう千住宿の継立は繁忙をきわめた。この官軍の移動について一〇月の末、一丁目、二丁目、河原町、橋戸町の年寄と三丁目、四丁目、五丁目、掃部宿、小塚原町の名主から、幕府代官から職務を引き継いだ武蔵知県事宛に願書を出しているが、当時の様子について次のように述べている。
…略…今般右両国(奥羽)御鎮定にあいなり候趣にて、諸御藩之兵隊、一時に東京へ御凱陣、当月(一〇月)二日より当宿へ御繰り込み、およそ十四五日の間御逗留あい成り候御方も多分にて、宿内五丁目より小塚原町まで家割りに御宿あい勤め候えども、表家ばかりにては引き足りかね、余儀なく裏端家等へも御宿申し付け候次第につき、問屋場の儀も一か所にては御継立、御休泊、宿割等差し支え候間、宿内二か所へ仮問屋場補裡、宿役人どもは勿論、地方役人どもまでも、昼夜の差別無くまかり出、奔走まかりあり候…略…
※ 「御伝馬御用留」(前掲)より
ここに記されている様子を見ると、千住宿全体の家々に官軍の宿泊先が手配され、旧街道沿いの家々では不足して、町裏の家々にも宿泊させたことや、継立の事務が頻繁になり、問屋場も仮問屋場二か所を増設、さらに宿場役人だけでなく、普段の町の業務を行う地方役人まで動員され「奔走」していたとしている。いかに官軍の東京帰還の交通需要が大きかったかが判る。