官軍の千住宿陣

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先に見たとおり東北戦争の終焉にともない、官軍や降伏者の移動は一〇月に集中した。月末にはおおむね東京への帰還が終わる。そして二八日には大総督有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王は錦旗、節刀を奉還し、いったん戦火はやむこととなった。一一月になると千住宿では四月からはじまった官軍の宿陣について、その経費を算出するための覚書を作成している。こまかな宿陣については省略されているものの、おおまかな宿陣状況が判明する(左掲載一覧を参照)。これを見ると大規模な宿陣は三二件におよぶ。時期的に見ると関東での戊辰戦争で基地化した四月から閏四月の頃と、官軍の東京帰還時における一〇月から一一月はじめの宿陣が多かったことが判る。最初に千住に官軍が姿を見せた四月一日の東山道軍宇都宮斥候隊などは記入されていないため、全容とはしがたいものの、少なくともこの一覧にある以上の官軍が宿陣した。これには幕府脱走軍については記載されておらず、三月段階やそれ以前の状況、さらに、この後の箱館戦争までの官軍の移動などを考えると、千住宿が戊辰戦争で果たした交通拠点としての役割は、たいへん大きかったと言える。

千住宿が書き上げた戊辰戦争における主要な官軍宿陣
N0. 日付 宿陣した藩など
1 4/3~4 北陸道総督府
2 4/10 彦根藩
3 4/20 大村藩
4 4/20 土佐藩
5 4/22~29 佐土原藩
6 4/22~閏4/12 備前藩
7 4/26~27 伊州藩(伊予藩か)
8 閠4/3~9 東海道副総督および守衛人数
9 閠4/4~6 尾張藩
10 閏4/4 長州藩
11 8/23~24 肥後藩
12 4/18~閏4/5 紀州藩
13 10/9~11/1 佐土原藩
14 10/13~28 薩摩藩
15 10/17~18 徴兵隊
16 10/20~29 長州藩
17 10/22~24 彦根藩
18 10/23~24 大垣新田藩
19 10/23~11/3 大垣藩
20 10/23~11/6 備前藩
21 10/25~26 越前藩
22 10/25~26 北越御先陣飛脚
23 10/26~27 大洲藩
24 10/26~11/2 肥後藩
25 10/26~11/8 大村藩
26 10/26~ 土佐藩
27 10/28~29 大総督府(有栖川宮は28日のみか)
28 10/28~29 太政官会計官
29 10/晦~11/10 肥後藩 ※この月は大の月で晦日は30日
30 11/2~3 尾張藩
31 11/7~8 筑後藩
32 11/9~10 九条家阿部九十九

1868 (明治元)年11月「覚」(「御伝馬御用留」記載)より

 以上、見てきたとおり幕末維新と呼ばれるこの時代において、千住宿も無縁ではなく、むしろ官軍の移動や、基地化が行われたのみならず、奥州道中という東北戦争の舞台と江戸東京を結ぶ拠点となり、官軍や降伏者の通行と引き渡しの舞台となった。まさに千住宿は動乱の渦中にあったと言えよう。

 最後に、官軍宿陣の緊張下のエピソードを一つ紹介しておこう。一二月一九日の朝、掃部宿で火事があった。冬場でもあり大火のおそれがあったが、非常人足や火消しの努力で鎮火した。武蔵知県事の桑山圭助は「官軍方宿陣につき、弾薬等もこれ有り」という状況下で「一同、身命を挺してあい働き、早速鎮火あい成り候段、取り計らい方行き届き、奇特の至り」として褒賞した。活躍したのは橋戸町の平五郎、一丁目の兼吉、二丁目の伊之助、三丁目の新吉、掃部宿の岩二郎、岩太郎、善助、長二郎、忠三郎とその他の人足たちであった。彼らは官軍の拠点となり、火薬などが保管され、火災に弱くなった千住宿を「身命を挺して」守ったのであった(前掲「御伝馬御用留」所収、明治元年一二月付「申渡シ」ほか)。


■千住宿での東北戦争降伏者の引渡の例

去ル十九日御達御座候通、大膳亮家来脱走降人共御引渡ニ付、一昨廿四日千住駅ヘ家来差出、於長州本営、御使番唯九十九殿、御立会長州藩隊長長崎大蔵、大垣藩隊長山本重蔵ヨリ請取、同所大橋ヨリ警固人数共為乗組、在所ヘ出帆為仕候、尤降人之内、別紙五人手負病気等ニ付、松平若狭家来日向内記ヘ相頼、奥州同人領内ニテ療養罷在候趣申間候、将亦於先々変姓変名居候者モ御座候処、別紙名面之者ニ相違無御座候、依之、別紙二通相添此段御届申上候、以上。

  十月廿六日   青山大膳亮家来 戸川貞右衛門

※ 大膳亮・青山大膳亮=美濃郡上藩主、青山幸宜(あおやま・ゆきよし)。出典=東京大学史料編纂所編『復古記』第十冊(東京大学出版会、一九二九年刊、一九七五年復刻版を利用)「東海道戦記」第四十五所収。