南足立郡千住町の成立

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一八八八(明治二一)年四月、市制町村制が公布された。府県に市を置き、町村は財政的にも自治に堪え、自立できる規模の町村を創ることを目的とし、統廃合が計られた。

 東京府の区部は「東京市」となったが、郡部の町村の統廃合は翌八九(明治二二)年四月に内務大臣により許可され、五月一日から施行された。

 南足立郡は千住町外八か村に整理されたが、二年後に伊興村が淵江村から分離独立し、一九三二(昭和七)年の区制施行まで、南足立郡の一町九か村の時代はつづくことになる。

 千住町は、千住一丁目から五丁目の五か町と、千住中組が合併し成立したが、其の他に本木・西新井・興野・小右衛門新田・栗原・島根の各村の飛び地が組み込まれた。東京府は合併を行い千住町を編成に要する事由として、

 町々ノ資力独立自治ニ耐ヘ難ク、然ルニ境界互イニ錯雑シテ官民ノ不便尠ナカラス。且千住宿ハ陸羽街道ノ咽喉ニシテ、大橋以北梅田ニ達スルノ間、殆ト連簷櫛庇スルノミナラス、飛地ハ何レモ千住五丁目ラ付帯ス。而シテ各町共陸羽・水戸・下妻・鳩ヶ谷ノ四街道ニ関係シ、又荒川・綾瀬川ニ沿ヒ修路築堤ノ負担ヲ共ニシ、加フルニ見沼用水・千住堀組合ニテ、悪水モ亦千住市街ノ中央ヲ横断シテ荒川ニ合流シ、又三学区ニ渉ルト雖モ一市街ナルヲ以テ、千寿小学ノ一校ヲ設ケ其ノ経済ヲ共ニシ、生徒通学ノ不便ヲ感セス。彼是利害休戚ヲ共ニシ、加フルニ民居ハ陸羽街道ノ左右ニ列シ、交通之便利ハ勿論、人情風俗ニ於テモ亦異ナル所ナキヲ以テ、斯クノ如ク合併スルヲ要ス。


とし、新町名選定の事由も「各町ハ千住ト総称スルヲ以テ其名称ヲ保存シ新町名ト為ス」としている。この後、従来の各町は千住町の大字名となったのである。

 合併当時の千住町の区域面積は、五三一町歩余(約五二六万六千m2)、人口一万二七三三人、その戸数二八三八戸という。