市場の概要

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同市場について、設立してから間もない一九二九(昭和四)年二月の東京市の調査(『東京近郊に於ける青物市場に関する調査』東京市役所)によると市場の概要は別掲一覧の通りである。同市場の歴史を詳述した『千住魚河岸五十年史』(千住魚河岸五十年史編纂委員会、一九七五年)によると、この時期は昭和恐慌下の不景気に加えて、交通事情の不利からくる経営困難期で「どん底の七年間」のうちであったという。

昭和はじめの東京北魚市場の概要
位置 府下南足立郡西新井村大字本木堤外耕地
規模 敷地9800坪(使用中は約5000坪)
設備 鮮魚売場(建物4棟)、塩干魚売場、汐待茶屋ほか
経営主体 株式会社東京北魚市場
市場内経営者
問屋兼仲買 78名(鮮魚専業64、鮮魚及塩乾魚10、塩乾魚専業4)
仲買人 7名
付属業者 車茶屋、付属商、運送業、小揚及軽子業
営業者団体 東京北魚市場組合
荷主 ※トン数はいずれも一日平均
築地魚市場 10トン
直接入荷産地 北海道、三陸、茨城、千葉、静岡、小笠原、台湾
同入荷経路 隅田川駅経由5トン
両国駅経由2トン半
汐留駅経由1トン半 小田原、沼津、焼津、清水方面から鰹、ナマリ等毎年5月~7月まで
「小笠原・台湾の出荷は鮪類に限られ小笠原のものは毎年11月より翌年2月迄にして年額約5000貫、台湾よりの入荷は年額約2000貫」
買人 1500人(一日平均)
「東京市に於いては本所、浅草下谷の一部にして、その他南葛飾郡、南足立郡、北豊島郡および埼玉、茨城の諸県」
運搬 入荷 自動車 築地市場、隅田川駅、汐留駅経由のもの
発動機船 「両国駅経由のもの」
「小笠原は築地市場で積み替え、台湾の入荷は横浜港にて積替え発動機船により搬入さる。」
出荷 「買人は主としてリヤカーにより手挽車、自動車これに次ぐ。その割合はリヤカー6割、手挽車3割、自動車1割に当たる。」

出典=『東京近郊に於ける青物市場の調査』(東京市役所、1929年)より
※「 」内は原文からの引用。引用に当たっては一部常用漢字等にあらためた。


昭和初期の東京北魚市場の図
西新井橋の南詰にあった北魚市場のようすを記している。図面左下には「既設船渠」と「増設船渠」があるほか、潮待茶屋が「茶屋」として描かれ、船と関わりが深かった同市場の状況が読みとれる。
「東京近郊に於ける青物市場に関する調査」(東京市役所、1929年)より

 なお荷物は発動機船を用いる水運とリヤカーや自動車などによる陸運で運送された。同市場の施設には汐待茶屋があり、取引や運送にかかわる人々で賑わった。

 このあと、一九三一(昭和六)年に同市場は自動車部を設置して北千住駅からの送迎サービスを開始したことや、三二(昭和七)年と三六(昭和一一)年に発生した第一次第二次の築地市場の争議にともなう臨時需要が追い風となって取引量が急増。とりわけ三六年の取引量の急増時は次のような状況であったという。

 …略…争議中に北魚市場に入場した買出人は、佃、深川、浅草、江東、王子、板橋、練馬、池袋、渋谷、新宿、千葉など広範な区域から集まり、一日平均三〇〇〇人をくだらなかったという。そのため北魚市場は夜中の二時頃から、買出人の自動車、自転車、リヤカーが押し寄せ、荒川土堤にあふれる始末だった。警察から、土堤の崩壊する危険があると注意が出るほどだったから、そのすさまじさは想像できよう。…略…

※『千住魚河岸五十年史』(前掲)より

 こうした争議などで市場は周知されることになり、多くの買出人が定着するようになったという。

 さらに、この市場の特徴であるが、「自由市場」であるという点があげられる。産地から問屋兼仲買人が直接集荷することが出来たため価格が廉価になるという利点があったという。そしてこの頃から、北魚市場は「黄金時代」を迎えていった。

 その後、戦時中の統制経済下でこの市場は自由市場としての性格を喪失させられ、太平洋戦争がはじまった一九四一(昭和一六)年には仲買人制度が廃止され、東京北魚荷受組合が組織されたことで「自由市場」としての歴史に幕を下ろした(前掲『千住魚河岸五十年史』による)。

 一方、三五(昭和一〇)年の段階で、東京府は千住橋戸町に中央卸市場足立分場を設置のため、土地を買収し整備に取りかかった。そして空襲がはじまった四五(昭和二〇)年二月、東京都が設置した千住橋戸町の足立市場に移転した。こうして東京北魚市場にはじまった「千住の魚市場」は、今日につながっているのである。