工業の勃興

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 一九三一(昭和六)年に発行された『千住総覧』(むさし新聞社)は、千住町の工場について「工場は七百余戸あり。製産品の主なるものは、製革、織物、製紙等」と、数多くの工場が設立されていたことを述べている。また、同年十二月、翌年に市郡併合を控えた東京市臨時市域拡張部は、千住町の現状調査を行い、「町勢ノ現況」と題して次のような文章を掲げている。

 本町ハ大東京ノ東北ニ位シ、近郊地トノ連絡点トシテ交通上重要ナル地域ヲ占ム。新荒川放水路ノ完成並ニ土地区画整理、道路改修並ニ市電ノ延長、東武鉄道ノ電化及ビ住宅費低廉ナル故ヲ以テ住宅地トシテ発展シ来リ。町内ノ工業モ益々盛ニシテ、将来益々工業発展ノ地トシテ嘱望サレツヽアリ。

※ 『南足立郡千住町現状調査』(東京市臨時市域拡張部、一九三一年)より

 ここで千住町の様子として注目されているのは最後の一文で、町内の工業が盛んであり、将来も工業地として千住が発展していくと展望している部分であろう。この市郡併合直前の千住町の工場に関する当時の記述は、工業地として急速に発展した千住の様相を端的に物語っている。

 このように工業地としての性格が強くなったのはいつ頃からであろうか。南足立郡の中での千住町を扱った記述が一九一六(大正五)年と一九二六(大正一五)年の『南足立郡誌』にある。両書の記述は上に掲げたようになっている。

 一九一六年の段階では副業的工業もしくは内職的工業が盛んであるものの機械工業については、「やや見るべきもの」という記述になっている。副業的工業、内職的工業という形態は、明治初年の産物に見られる状態であり、基本的な性格が、江戸時代からの連続にあると言えよう。

 しかし一九二六年になると千住町は「工業地」、すなわち当時広く設立されてきた近代的な工場が立地する場所となっており、副次的に副業的工業と内職的家内工業があるという文脈で書かれている。そして先に見た一九三一年の段階に到れば千住町は工業の町との認識が出来上がるのである。

工業の概要変遷
年代 記述
一九一六年(大正五年) 工業 浅草紙の製造は古来大に開け近時砂糖袋、表紙紙等益々盛んにして副業的工業卸、組麻、下駄の鼻緒その他内職的工業をなすものすこぶる多し。工業地としては千住町主(首)位に在り、近年機械工業の発展、やや見るべきものあり。
一九二六年(大正六年) 工業 従来本郡は、荒川水利と、常磐、東武の両鉄道の便あり。これに加え東京市内の大事業家を控え、すでに千住町の如き工業地として形態あり。しかも発展地の常として、住民中には表紙貼、砂糖袋、生煎餅等副業的工業、あるいは爪掛、玩具等内職的家内工業の職を営むもの簇出し、将来益々発展の兆しあり。これを荒川放水路、中川運河、あるいは鉄道の電力化等に想到せんか、今より逆賭すべからざるの状なり。

※出典=各年代の『南足立郡誌』による。

 このように大正後期から昭和初期にかけて、千住は工業地としての性格を強めていったことが、当時の資料に登場する。