大正から昭和戦前にかけての商業と工業の変遷を見てきたが、いずれも江戸時代から伝統的に続いていたヤッチャバや内職的工業といった形態に、明治以後新たに設立された商店や市場、そして近代的な工場が加わっていった。この変化は千住地区に於ける農業の衰退を伴っており、おおむねこの時代で千住の農業は終焉を迎えるに至ったのである。
景観的に見ても、かつての景観とは大きく異なっていった。かつては街道沿いに市街地があり、町裏には田園地帯が広がるという江戸時代から続く景観であったが、この時代になると工場や住宅地が広がっていった。広大な千住地区の農地は、工場や住宅の用地として新しい役割を果たしていったのである。
こうした景観の急激な変化は、千住地区のみではなく周辺の現葛飾区や墨田区など東京に隣接したかつての田園地帯で発生していた。この時期、新しく開鑿された荒川放水路を散策したことで知られる永井荷風は、堀切駅から放水路を散策し北千住駅まで散策した一九三二(昭和七)年一月十八日の日記に「…両岸とも人家の屋根は高き堤防に遮られて見えず。暮霞蒼茫たるが中に電車の電柱、工場の烟突の立てるのみ。…」と記し、この時期に電化された鉄道の電柱と、林立するようになった工場の煙突に注目している。そして一九三七(昭和一二)年四月二〇日の日記で、その景観について「…放水路の堤も昭和四、五年のころ初めて来り見し時に比すれば、北は千住より南は小枩川に至るまで今は騒然たる場末の町と変わりなき有様になれり。…」と記し、急激な風景の変化を書き留めた※。荷風の言う「騒然」とした有様は端的に千住地区の近代産業の活力を表現していると言えよう。
※出典=永井荷風『断腸亭日乗』(岩波文庫、抄録版。一九八〇年)を利用。