これらの法と共に道路法も公布された。道路は国道・府県道・郡道・町村道に分けられ、それぞれの管理者が定められた。また、一八九九(明治三二)年築造した現・旧道から北千住停車場までの道路を、府県道第一六四号千住・北千住停車場線として認定した。
二二(大正一一)年四月、内務省は東京都市計画区域を定めた。工業化が進み、東京への人口、産業の集中が加速し、住宅地は飽和状態の市内から郊外へと広がっていったためである。内務省の決定した範囲は、南足立郡・南葛飾郡の全域と、北豊島郡・豊多摩郡の外周、北多摩郡の村を含む八四か町村で、現在の二三区とほぼ同じ地域が対象であった。
二五(大正一四)年一月をむかえると内務省は、市街地建築物法に基づく地域および用途地区の指定を行った。千住町にあっては、千住大橋より千住中組・千住一丁目から千住五丁目の荒川放水路に至る、陸羽街道沿いの旧市街の区域と、貸座敷営業地(柳町)の区域を商業地域、荒川放水路以南の商業地域を除いた全地域は工業地域に指定した。この指定で隅田川沿岸には工場の進出が加速した。続いて同年五月、千住中組(河原町)地内に市街地建築物法による建築線が告示された(図内のA)。この告示建築線は、日々刻々と市街地が進行して行く状況の中で、本来地主たちが組合を創って進めることが前提になっている土地区画整理が困難になっている地域に、野放図なスプロール化を防止するため、土地区画整理に替わり行政の裁量で実施できる簡易区画整理とも言える建築線計画に置き換え、市街化に先立って計画的に道路を築造して街区を整備し、望ましい水準の市街地に誘導する都市計画手法であった。
この建築線の実際の運用は、市街地建築物法の適用区域が、東京市域と周辺六八か町村を含む範囲となったこの頃から、三二(昭和七)年にかけて集中的に行われた。しかし、その指定は地主の負担の公平を原則としたため、在来の道路や筆界などを基本に指定したので、不整形な街区や過大な街区を作り出すことも多かった。また一一月に千住四丁目(大川町)地内(図内のB)にも、建築線が告示され、市街地としての発展に一つの基準が整備された。これらの建築物に対する建築線の運用は、急速に市街地化した千住地区の町並みに影響を与えたのである。