市街地となった千住地区の公園

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農村地帯と異なり、早くから市街地化が進んだ千住では、公園の設置も早くから行われた。ここでは市街地化を物語る公園の歴史について触れておきたい。一九三二(昭和七)年一〇月、内務省は東京緑地協議会を設置し、東京緑地計画を決定した。計画された緑地の総面積は約三〇万ヘクタールにのぼり、現在の東京首都圏の区域が含まれていた。東京では市域の外周に輻一kmから二km、総延長約七二kmの環状緑地帯が策定されたが、都心部の内側に向かう楔状の部分、河川沿いの地域も含まれた。緑地帯の内側には、大公園と多数の中小公園が計画された。

 三五(昭和一〇)年四月、千住橋戸町に区内初めての市立大橋公園が開園した。当初は架け替えで撤去された千住大橋の橋台跡地を、旧千住町が東京府から借り受け、橋戸町の有志が資金を拠出し、樹木・便所・ベンチ等を設け、子供公園として使用していた。三三(昭和八)年七月橋戸町の住民は端の左右の橋台跡地に公園の設置を東京府に陳情し、これがかなって東京市によって公園の設置が成った。

 三七(昭和一二)年一月、千住大川町に千住公園が開園した。元南足立郡立・伝染病防疫隔離病院の跡地であった。周囲は震災後急激に人家が増え、立ち退きが余儀なくされてその跡地は住民の要望から公園となった。同年五月、千住関屋町の土地区画整理組合施行地区内に、現・千寿第八小学校北側に隣接して、関屋公園が開園した。

 四一(昭和一六)年一月、内務省は千住緑町に東京都市計画北千住公園(二・八七ヘクタール)の設置を決定し、その広場造成を指令した。