江戸時代以来、宿駅制では公定賃銭が設定され、不足分の一部をかつては幕府が、明治以後は新政府が助成し、さらなる不足分は駅・助郷が負担するという方法をとっていた。そのため恒常的に輸送費の問題が発生していた。千住駅ではこれを改正しようと一八六九(明治二)年には、「新規相対雇人馬会所」の設置を願い出ていた。これは、公定賃銭ではなく、時々の物価に対応した賃銭を受け取る「相対賃銭」を基本とした人馬継立方式への変更を求めたものであった。こうした動きは宿駅制全体に見られ、一八七〇(明治三)年に政府は民営の人馬相対継立会社を設立しようという説諭(せつゆ)が行われた。経営方法は、旅行者や運送業者との相対によって人馬を提供し、駅近隣の往還稼ぎの者を社員として、会社は社員に斡旋料を徴収させようというものであった。その後、一八七一(明治四)年には、小菅県下の各駅(旧宿場)が陸運会社を設立しようという動きが起こっていた。小菅県の廃止後、事務を引き継いだ東京府は陸羽街道千住駅から白河駅を一つの会社とする陸運会社設置準備を進めていった。