人力車の繁昌

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 人力車は一八七〇(明治三)年頃に考案され普及していった交通手段である。輸送手段としては従来からの馬、荷車とともに、利用されるようになり一八七二(明治五)年頃には、広く普及していた。

 千住地区と周辺には別表の車両と馬があったことが記録されている。千住だけで人力車は一四一両(現荒川区に属する南組を含めると一七九両)があり、多くの利用があったことが判る。周辺の村々にはあまり人力車は見当たらないが、陸羽街道沿いの島根村(現梅島、島根)に多数の人力車があったことが判る。

1872 (明治5)年の千住とその周辺の車両と馬
場所 車両 馬 備考
人力車 荷車
千住宿北組 132 52 14
千住宿中組 9 70 2
(同南組) 38 45 1
弥五郎新田 0 0 6
柳原村 (項目記載無し)
梅田村 0 1※ 1 ※農車とあり
島根村 54 6※ 3 ※農車とあり
本木村 0 0 1
小右衛門新田 0 1※ 5 ※小車とあり
次郎左衛門新田 (項目記載無し)

明治5年『東京府志料』(東京都1961年刊行本を利用)
記載の「車馬」の項目を利用。

 ところで、一八七二年当時、千住大橋は人力車の通行が禁止されており、当時の新聞には「千住大橋の不便」と題して、人力車の通行を認めるようにという次の提言が掲載されている。

 府下の四大橋は、岡本土木頭の公平正大の論を以て、既に馬車荷車の通行を免る(ママ)されたり。然るに千住の大橋に至っては、未だ人力車を輓くことだも禁ぜり。抑々此橋や、陸羽の官道に当り、北海道の門戸たり、苟くも北門を鎖すに異ならず、即今政府鉄道電線を青森に通ずの命あり、此橋の枢要、四大橋の比にあらざること、更に呶々(どうどう)を待たざるなり。(以下略)

※「東京日日新聞」明治五年十一月五日。竹内秀夫編『新聞・官報に見る明治の足立―明治元年から明治二六年まで―』(足立区郷土史料刊行会、二〇〇二年)所収、〇五〇九号資料。以下同書を竹内『新聞・官報』と略す。

この記事を見ると、すでに人力車が一般的な交通手段となっており、千住大橋の人力車通行禁止が大きな障害となっていたことが読み取れる。

 なお、この記事が出た同じ月、千住大橋の馬車、荷車などの通行規制は解除されている(『東京市史稿』市街篇五三)。

 その後、人力車の数は増加して一八八一(明治一四)年二月頃には千住全体で(南組を含む)、四七七両に上っていたという(「読売新聞」明治十四年二月八日。竹内編『新聞・官報』一五〇七号資料)。さらに一八八一(明治一四)年になると、千住では二丁目の豊田岩五郎ほか三九名が人力車組合会社を設立するなど、人力車の運用が広まっていった(「東京日日新聞」十二月十四日号、竹内編『新聞・官報』一四一一〇号資料)。


町を走る人力車(明治40年代の荒川〈現隅田川〉の洪水時、足立区立郷土博物館蔵)


荷車を引く馬車 昭和30年代まではこのような光景が見られた。(1960〈昭和35〉年ごろ足立区立郷土博物館蔵)