千住新橋と国道

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これより前、一九一〇(明治四三)年八月、十数日に渡る大雨で東京は大洪水の被害を受け、政府は洪水防止のため荒川放水路開鑿(かいさく)計画を検討し、翌年四月内務省直轄工事として荒川の改修を告示した。一三(大正二)年二月には、用地買収の終わった所から開鑿工事を開始し、陸羽街道には千住新橋の架橋も決定された。

 一七(大正六)年頃には放水路の築堤工事も急速に進み、新河川内の川田橋に至る国道は取り払われたため、千住五丁目より下妻街道を経て、放水路左岸沿いに川田橋に至る堤防下道路を陸羽街道と称したようである。

 東京府は一九一八(大正七)年度より千住新橋の架橋計画に着手していたが、翌年一一月の通常府会冒頭で、知事は「陸羽街道筋荒川ニ架設スベキ千住新橋、木橋ノ設計ナリシ処、交通ノ状況等ヲ参酌シ、之ヲ鉄橋ニ変更ノ要アルヲ以テ、予算ヲ更正スルモノトス」と千住新橋の設計変更を説明し、既定予算額四五万七二一一円を一〇六万四三六円に変更する更正予算案が可決された。かくして二〇(大正九)年一月三〇日、東京府は千住新橋の架橋工事に着手したのである。