昭和の初期、現JR田端駅から足立区内を経、筑波山麓に至る延長六三kmの鉄道敷設計画が免許されていた。この経路の内、足立区内花畑以遠の経過地は、現在建設が進められている常磐新線、筑波エキスプレスの経路と略同様なルートであった。
この鉄道の敷設を計画したのは、一九二八(昭和三)年八月に設立された筑波高速度電気鉄道株式会社で、足立区内だけでも四度にわたり路線が変更され、三〇(昭和五)年一〇月京成電気軌道(現・京成電鉄)に合併されて、現在千住の南端を走る京成電鉄の姿となった。
敷設免許の申請は二七(昭和二)年八月六日提出され、翌二八年三月一二日鉄道大臣より鉄道敷設・貨客の運輸営業が免許された。当初の企業目論見書によると、田端・筑波山間には一四の停車場を設け、足立区内には東武鉄道西新井駅西に梅島停車場が予定された。しかし会社は七月一一日企業目論見書の変更を申請し、起点を田端から日暮里に変更し、経過地に千住町を追加した。この変更で照会を受けた千住町、西新井村は、別段支障は無いと回答したが、三河島町は同軌道を高架式にするならば、支障ないと回答している。
この免許線路の変更は、八月二七日鉄道大臣より認可されたが、同月一四日会社の設立登記が完了したと、東京府へ届け出ている。
九月一一日会社は「開業後の会社の鉄道は省線(鉄道省・国営)との連絡駅が無いために輸送事業の欠陥があり、旅客交通・運輸の機能を果たすために梅島より省線亀有駅に接続させる支線を敷設し、千葉県入口となる松戸町も房総方面に便が無いため、船橋に至る線路を敷設し、沿線の開発を行いたい。」と梅田・国分間約一〇・九km、松戸・船橋間一二・二kmの新たな鉄道の延長敷設免許を申請した。
これに対し、梅島村より国分村を経ず直接松戸町に至る鉄道の敷設と、旅客貨物の運輸営業が免許されたが、国分村・船橋間鉄道敷設は不許可となった。一方、本線の鉄道敷設工事施行認可の申請期限が二九(昭和四)年九月一二日となった同月三日、「流山以北の区間は茨城県新治郡柿岡町の磁気観測所の関係で、電気鉄道が観測に障害を与えることを理由に、逓信大臣が許可を認めない」として期限延期を申請した。この結果、流山・田井間の工事施行認可申請期限は、三一(昭和六)年九月一一日まで延期が許可された。
三〇(昭和五)年五月二〇日、会社は企業目論見書の記載事項変更を申請した。これは南足立郡梅島町から千葉県松戸町に至る支線を、南足立郡千住町から南葛飾郡南綾瀬町・本田町・奥戸村に変更し、南足立郡梅島町・綾瀬村・東淵江村・南葛飾郡亀有に至る路線を削除する変更であった。その理由として「京成電気軌道株式会社株主総会、および当社の臨時株主総会で両社合併決議が成った結果、当社運転系統を根本より見直し、京成電気軌道路線と合致させる必要があった」としている。これ以前の四月一四日、両社間で合併契約が行われ、五月二一日「両会社の線路はその系統を統一することは、一般利用者の便宜を図るだけでなく経営上も有益であるため、京成電気軌道と筑波高速度鉄道は合併し、筑波高速度鉄道は解散、京成電気軌道は存続」と説明し、会社合併認可申請書を鉄道大臣並びに内務大臣に提出した。この合併は同年七月二四日両大臣より認可された。
筑波高速度鉄道は資金難のため事業遂行に支障を来しており、工事施行認可後の日暮里・荒川までの高架橋工事も用地買収だけにとどまり、着手できずにいたのであった。この結果、京成電気軌道へ結ぶことにより合併が成立したのであった。
これより京成電気軌道が鉄道開通へ向けて、本格的に事業に取り組むこととなり、免許を継承した京成電気軌道は一一月一日工事着手を届出、日暮里・荒川口間の工事を開始している。梅島町に替わり千住町荒川口から松戸までの線路の敷設は、同年八月二七日認可された。千住・青砥間の鉄道敷設で、改めて特許を得た京成は、千住・柳原間の工事施行申請を三一(昭和六)年一月二三日提出し九月一四日認可、柳原・青砥間の工事施行は二月二五日及び七月七日の二度により認可された。
しかし、京成電鉄の社史によると日暮里・青砥間の工事は、会社の合併が認可された三〇年七月には工事を開始し、既に用地買収が略完了していた日暮里・荒川口の工事と共に、会社の総力を挙げて千住・青砥間の用地買収を急ぎ、青砥と荒川放水路の間は地盤が軟弱で、一年六か月の工事の結果やっと完成されたと記されている。
荒川(隅田川)および荒川放水路に架橋した鉄橋工事などの詳細は、京成電鉄においても一切不明である。建設省荒川下流工事事務所の「七十五年史」に、三一(昭和六)年三月荒川及び荒川放水路に京成電鉄の鉄橋完成の記述があるだけである。
このような経過によって、現在の日暮里・新三河島・町屋・千住大橋・関屋・堀切菖蒲園・お花茶屋から青砥駅に至って京成本線に連結する線路が完成、一九三一(昭和六)年一二月一九日より開業し、ここに千住町南部に鉄道が開通した。
三三(昭和八)年一二月日暮里・上野間の開通によって、今ではこの経路が京成電鉄の本線となり、従来の押上・青砥間は支線となったのである。
また一方では、旧筑波高速度電気鉄道の免許線「西新井・流山・田井」間の鉄道企業廃止申請を行い同年一二月一一日許可、二四日東京府に免許状を返納した。しかし、西新井で東武鉄道と接続する千住・梅島間三・六kmは、三一(昭和六)年一二月改めて特許を得た未成路線として残り、青砥・松戸間も同様に軌道法による特許を得たようだが、三六(昭和一一)年二月二〇日に至り、両区間の軌道起業廃止を申請し許可されている。千住・梅島間については、西新井で東武鉄道との接続を画していたと思われる。
千住緑町地域の用地買収は相当の困難が伴ったようだ。日本皮革工場地を除き、大部分の土地は某紡績会社所有地であったという。鉄道用地の買収で会社所有の全土地の買収を求められ、この対応に苦慮したと言う。結局全所有地を買収したが、これが後になって幸いしたようだ。そして三二(昭和七)年九月から開始した日暮里・上野間の隧道工事で出た残土をこの地に運び、湿地の埋立に利用して宅地の造成を図った。
これを裏付けるように、京成電鉄はこの地に市街地建築物法による建築線の指定を申請して宅地の造成を図り、三五(昭和一〇)年には直営不動産事業に乗り出して、六月一日には分譲者への利便を計り、隅田川と千住大橋駅の中間に埋立土砂貨物駅を改めて「西千住駅」を設置した。
軌道敷設の際、広大な土地を買わざるを得なかった会社も、残土の処分場所と宅地造成による効果は、まさに一石二鳥であったと言える。
四五(昭和二〇)年六月二八日、京成電気軌道は京成電鉄と社名を変更して現在に至っているが、千住緑町地内の西千住駅は、四七(昭和二二)年二月廃止された。