関屋の巣兆として知られたが、その住居地については不明な部分が多い。現在、同時代資料には残念ながら居所を直接示すものが未発掘であるが、一九一九(大正八)年に成立した井上仙吉「南北千住町今昔見聞実記」には、次のような記述がある。
巣兆子ハ、文化年中の人。住宅ハ旧掃部宿東堤内、今の向山鉄工所の筋向にて、元氷川面といふ田の所。其の印に堤敷に少し築出しあり。氏ハ大酒呑の人。其の頃の慈眼寺に住職大酒呑の人あり。時々慈眼寺江迎ひに行き、酒を呑み乍ら絵を書く故に、慈眼寺の事を巣兆寺と云ふ。同寺ハ巣兆の書物多く秘蔵せり。此の人晩年ハ不明なれど、住宅の地ハ其の書付の町連中の有志が買求め、鎮守氷川神社へ納めしとの事なり。此の辺ハ、荒川八景と云ふ。是に八句有れ共、今ハ忘失せし故に其の二三を印す。
※ 郷土博物館複写収集資料。一九二〇(大正九)年永浦一真書写、一九四一(昭和十六)年山崎孝也写。
この記述の冒頭にある向山鉄工所はあたりとは、現在の千住東一丁目二番九号付近から三番一〇号の墨堤通り沿い(道路北側)に該当する。残念ながら現在のところ、本資料以外に巣兆の住居地を特定する記述が見出せない。わずかに「旧考録」(永野家文書、前掲)に収録されている亀田鵬斎(後掲)の一文に、千住掃部堤沿いで東に田畑を見渡せる場所、という記述があるのみであり、到底、場所を特定するには至らない。本資料の記述も後世の記述であるとともに、口伝の採録という性格があるため、もとより断定は困難であるが、候補地の一つである。
一方、巣兆の俳画と俳句を組み合わせた作品は、寺院、旧家に多く残されていたが、戦災等で焼失、骨董ブームで散逸したものも多い。しかし、今日では千住の人々を中心に、郷土の文人の作品としてその保存確保に努められているとともに、多方面から研究がすすめられている。